
アイコンの誕生
まとめ
舞台の設定
アートの創造のプロセスはむしろ個人的なものであり、会社のアーカイブに残っていることは殆どありません。アーカイブで保存されているのは注文、図面、議事録、会計帳簿などです。しかしロイヤル オークについては幸いに、デザイナーの証言となるものが残っていました。ジェラルド・ジェンタ (1931–2011) は80才で亡くなる数ヶ月前にオーデマ ピゲの長時間の録音インタビューを受けました。これにより私たちが解き明かそうとしている物語の手がかりと背景を知ることができます。41年も経った後では記憶はあやふやな部分もあり、日付やいくつかの事実はこれまで知られているものと合わない部分もありました。またロマンチックに彩られているように思える部分もありました。しかし物語の中枢は変わっていません。強い感情が伴うことにより記憶にしっかり残っているからでしょう。1970年、ジェンタは自らのキャリアでの最高傑作を創造する予感を感じていました。
その頃 オーデマ ピゲ は戦後の経済ブームにより、一世紀近い長い歴史の中で最も著しい成長を遂げた20年間を経たところでした。 20年間に従業員は35名から84名に増え(うち67名はアトリエ)、年間製造数は10倍の5,500本にまで増加しました。売上額も同様に伸び、1,000万スイスフランに近づいていました。当時オーデマ ピゲのオーナー経営者は創業者の二代目と三代目のポール=エドワール・ピゲ(1890–1979) とジャック=ルイ・オーデマ(1910–2002)でした。その前の3年間はジョルジュ・ゴレイ(1921–1987) が経営を行いました。ジョルジュ・ゴレイはビジョンを持つ起業家です。ジュウ渓谷の農家に生まれ1945年に入社して以来、ブランドの近代化に熱心に取り組んできました。
第二次世界大戦後、オーデマ ピゲはルクルト社と親密な提携関係を築きました。ルクルト社はオーデマ ピゲが使うエボーシュ(ムーブメントの半完成品)の大半を納入しており、その中には世界最薄のキャリバー2120と2003も含まれていました。コンプリケーションウォッチはオーデマ ピゲの得意分野でしたが、レディースの需要が見込まれる極薄の時計も、製造の半分ほどを占めていました。1951年になって「ウォッチモデル」という概念が生まれるまで、同じタイムピースでも10本未満というごく少量のシリーズ、または単品での製造が普通でした。
SSIHとの合意
製造数が増えたことにより、流通を見直さざるを得なくなってきました。オーデマ ピゲのように当時としては小規模で、国際的流通にほど遠い山中の小さな村にあるブランドにとっては頭の痛い問題です。この問題を解決する方程式を導くため、ジョルジュ・ゴレイは大きな手を打ちました。スイスの大手時計製造グループ、SSIH(Société Suisse pour l'Industrie Horlogère)との提携に署名したのです。(1991年から始まったジュネーブの国際高級時計展SIHHではありません)SSIH はスイス最大の時計製造グループで、世界第三位、1970年の製造数は460万個です。7000名を雇用、20のブランドを保有し、160の販売エージェントと15,000 の小売店のネットワークを通じてウォッチを販売していました。
1960年代の終わり頃、SSIHはトップブランドのオメガに加えてハイエンドブランドのビジネスを広げたいと思っていました。一方、オーデマ ピゲの方では販売ネットワークを広げたいと思っていた時でした。両社の思惑が一致し、APとSSIHの業務提携 は一年の交渉の末、1969年2月5日に合意に達しました。 オーデマ ピゲは資本と製造において完全な独立を保つ一方、ウォッチの販売に関してSSIHの一般エージェントを使うことができます。オーデマ ピゲがその時に予想できなかったのは、その中の3人の手強いエージェントがその後に出してきた提案です。この3人というのはカルロ・デ・マルキ(イタリア、トリノのイタロメガ)、シャルル・ボーティ(スイス、ローザンヌのガメオ)、シャルル・ドロー(フランス、パリのブラント・フレール)。1971年にオーデマ ピゲに入社し、セールスマネジャー、2012年までミュージアムディレクターとして活躍したマーティン K.ウェリーによると、この3人のエージェントには「三銃士」とのあだ名がついていたそうです。これについてはまた後で述べます。
1970年4月10日、バーゼルフェアの前日
ロイヤル オークの誕生は、毎年4月に開かれ当時の時計産業が一堂に会する年中行事であったバーゼルフェアと密接につながっています。世界中からブランド、エージェント、ディストリビューターたちが集まり、10日間にわたって新製品の発表、意見交換、時計産業の将来や新たな地平を探るなど、葉巻をくゆらせワインを楽しみ、友情を分かち合いながら過ごす時計フェア。特にディストリビューターたちはここで新年度の発注を行うため、メーカー(ブランド)は製造計画を慎重に練らなければなりません。
1970年はフェアが4月11日に始まりましたが、多くのディストリビューターたちはオープン前からバーゼル入りしました。中には最新トレンドをつかもうと、ファッションの世界的中心地ミラノに立ち寄るディストリビューターたちもいました。
1970年4月10日、ジョルジュ・ゴレイは今回からの新たなSSIHのエージェント、カルロ・デ・マルキ、シャルル・ボーティ、シャルル・ドローに会いました。数人の証言によるとその時「三銃士」は、オーデマ ピゲのマネージングディレクターのジョルジュ・ゴレイに、こういうウォッチを作らないかと強く勧め、それがロイヤル オークの前身となったといいます。会話の詳しい内容はわかりませんが、1982年2月のインタビューでジョルジュ・ゴレイはこう言っています:「ロイヤル オークのアイデアは1970年に生まれました。ハイエンドタイムピースをゴールドの価値だけで発注予約していたエージェントたちがあることを示唆したのです。私もそういう形はもう長くないだろうと思っていました。彼らは現代生活にフィットしたステンレススティールウォッチを作らないかと私に頼んだのです。スポーティでスタイリッシュ、夜の社交にも昼間の活動にもフィットする、現代のメンズテイストにふさわしいモデルを創造することが求められていました」ゴレイはつけ加えていませんが、この強気のエージェントたちは最高にラグジュアリーな彼らの販売店に十分行き渡るだけの数量を生産してほしいと望みました。

ジョルジュ・ゴレイの挑戦
ジョルジュ・ゴレイはこの提案をやり過ごすこともできたはずです。例えば、オーデマ ピゲはこれまで以上にとても好調で、コレクションは次々と成功し、独創的で洗練されたデザインと完璧な仕上げが人気を呼んでいること、だから大規模生産とは相入れない存在だというように反論することもできたでしょう。またこのような繊細な仕上げはスポーツで受ける衝撃や摩擦に向いていない、それにスティールケースにこのような仕上げを施すことはほぼ不可能だ、と。(ワインに例えるならば最高級ワインをプラスチックカップで飲むようなものだ)さらにこのような仕上げや装飾を施せばコストが莫大になるのでウォッチの価格が高くなりすぎると反論することもできたでしょう。スティールウォッチをゴールドウォッチの価格で売るのはまさに自殺行為だ。それにスティール スポーツウォッチの市場はすでに飽和状態で、オメガのシーマスター、タグ・ホイヤーのモナコ、 ジャガー・ルクルトのポラリス、ロレックスのオイスターなど強力なモデルがひしめいている、とも。そしてさらにジョルジュ・ゴレイは、仮にスティールのAPスポーツモデルが成功したとしても、それはオーデマ ピゲのアイデンティティを歪めることになるのではないか、とも考えていたでしょう。
しかしそれでも、ジョルジュ・ゴレイは彼らの勘を信じたのです。この分野で豊かな経験を持ち優れたセールスマンであったゴレイは、世界が社会、文化、金融のどの面でも大きな転換点にあることを感じていました。米国ではちょうどドルの金本位制を廃止したところでした。スイスの時計産業もカルテル的に大手が占める体制から変わりつつあり、時計産業にとって未知の新テクノロジーが市場に登場してきていることにどう対処すべきかと考えていたところでした。クォーツウォッチはラグジュアリーな時計の未来だと考える人もいれば、機械式ウォッチの終焉を招くと危惧する人もいました。カードがシャッフルされ、多くの人は大地震が近づいているように感じていました。このような時は思い切って賭けに出る方が良いのです。ジョルジュ・ゴレイは賢明な戦略家です。財政リスクを避けるため、強気のエージェントたちにウォッチの製造前からこれを買い取ってもらうことに成功しました。さらに重要なことは希少なジョーカーを隠し持っていたことです。独立デザイナーのジェラルド・ジェンタ、不可能を可能にする才能あるパートナーと協力体制を組んでいたのです。
ジェラルド・ジェンタ、彗星のように現れたデザイナー
1970年4月、イタリア生まれのデザイナー、ジェラルド・ジェンタは38才でした。経験を積んだジュエラーのジェンタは強い個性を持った人物でした。時計の世界も知っていましたが、後に「時計界のピカソ」とのニックネームがつくほどの大仕事はまだやり遂げてはいませんでした。まだパテック フィリップのノーチラス(1976年)のデザインも、IWCのインヂュニア(1976年)のリニューアルも、ブルガリ・ブルガリ(1977年)のクリエーションも手がけていない時期です。しかし1950年代から多くの時計ブランドに何百ものウォッチデザインを売っていました。その中にはユニバーサルのポールルーター(1954年)やオメガのコンステレーション(1959年)があります。しかし、ここでジェラルド・ジェンタ自身と彼の果たした役割について見る前に、ウォッチデザイナーという職業がどのようにして生まれてきたのかを知っておきましょう。
ウォッチデザイナーの発明
1960年代、ウォッチデザイナーという職業は存在していませんでした。一握りの「スタイリスト」とか「モデルメーカー」といった人たちが椅子や車、道具などの日用品と同様に時計もデザインしていました。時計だけに特化し名を成した初期のデザイナーには、ジェラルド・ジェンタ、ジャン=クロード・ゲイト(ピアジェ)、ジャン=ダニエル・ルビ(パテック フィリップ)がいます。その後に続いたのがヨルグ・イゼック、エマニュエル・ギュエ、クロード・エンメネッガーなどです。彼らはこうしてキャリアを始め、中には今もバックグラウンドで継続しているデザイナーもいます。同時に、ファッション、デザイン、コンテンポラリーアートの国際的な影響により、仕事の仕方も変わりつつありました。例えばJournal Suisse d’Horlogerie(スイス時計ジャーナル)は「創造的アート」について多くの記事を書き、デザインコンクールも生まれました。これは1980年代のAcadémie des Créateurs Indépendants (独立デザイナーアカデミー)の設立につながります。
1920-30年代に創造の機運が非常に高まったにもかかわらず、オーデマ ピゲでは1970年代前の新モデル誕生のプロセスはあまり資料化されていませんでした。まだ20人ほどの小さな会社で、唯一無二のワンオフウォッチや小さなシリーズを製造する時は、プロジェクトは誰かのアイデアから生まれ、仲間うちで気軽に議論し、時計師と親しいケースメーカーとの間で自然に出来上がって行くというスタイルが多かったのです。ケースメーカーはジュネーブ(ウェンガーや エグリ、ラ・ショー・ド・フォン(ファーブル&ペレなど)、イタリア(ブレラ、ポンティ、ヴィラなど)、パリ (ジャガー)などにあり、ケース全体を作ったりダイヤルをデザインしてブランドに売ったりしていました。ですから違うブランドのウォッチのデザインが似ていることも多かったのです。中には国際的なブランドやリテーラー、ジュエラー、例えばティファニー、、ヴァンクリーフ&アーペル、ブルガリ、ギュブラン、カルティエ、オスカーハイマンなどと提携してモデルを作ることもありました。オーデマ ピゲは独立系のデザイナーとコラボしたこともあります。1950年代にドイツ出身のゲバート・ドゥヴェと共に作った「ディスコヴォランテ」5093モデルがその例です。
オーデマ ピゲとジェンタのコラボ
ジェラルド・ジェンタは彼の最初のデザインを1950年代にオーデマ ピゲに売ったと言っていました。彼の名はブランドのアーカイブには1960年に現れます。その時のモデルは幾何学的フォルムを洗練された手法でまとめたもの、モデル5179や非対称デザインの5182、テクスチャーとフォルムが戯れる5199があります。
1960年代には、価値観と感性を共有するジェンタとオーデマ ピゲとの関係は強く育って行きました。2011年のインタビューでジェンタはこう語っています:「誰もが自分の好みがあり、自身の‘響き’を持っている。オーデマ ピゲで私が身につけたものにより、美学とアーキテクチャーの法則を展開できるようになった。それは徹底的にフィジカルなものだ。時計は手首に自然に添うこと、そして袖口の下にスムーズに収まること」さらに「ジョルジュ・ゴレイと私は二人乗り自転車のようなものだった。彼が何かをいいと思っても僕がそれには賛成できないという時、それは結局やめた…二人で一人という感じだった」とつけ加えている。その結果二人は全く同じ時計を着けていました:それはモデル5233。殆ど溶けたせっけんにインスパイアされ、完璧に流体力学的なフォルムをしたウォッチです。
1967年から1971年までの間、二人の関係は最高に強固なものになりました。1967年、ジェンタはオーデマ ピゲ ハンドバッグウォッチで名誉ある「ジュネーブ賞」の佳作に入賞しました。1969年、1970年、1971年とオーデマ ピゲはジェンタをバーゼルフェアに送りました。ジェンタは、小さなAPのブースで顧客たちを迎え新製品を紹介するだけでなく、フェアの前にショーケースにウォッチを並べ、終了時には収納することも任されたと言っています。ですから1970年の4月10日にジョルジュ・ゴレイがジェラルド・ジェンタに電話をした時、彼らは互いに近いホテルに滞在していたと想像できます。
「これまでに見たことのないスティールスポーツウォッチ」
ジェンタはジョルジュ・ゴレイからの“午後4時”の電話を一生忘れることがありませんでした。APのマネージングディレクターの力強い声、落ち着いた権威、ジュウ渓谷の美しいアクセントでゴレイはこう言ったとジェンタが続けます:「ジェンタさん、ディストリビューションの会社に、これまで見たことがないようなスティールスポーツウォッチを作ってほしいと頼まれた。デザインスケッチを明日の朝持ってきてほしい」
ジェンタはすぐにデザインボードを出して作業にとりかかりました。こう説明しています:「これまでになかった防水性と言った。これははっきりしている。子供の頃、ジュネーブのレマン湖にある「マシン橋」の上で潜水ヘルメットを被ったダイバーを見たことを覚えていた。8つのボルトと潜水員の命を守るラバーシールを見た時にとても感銘した。そこで、この潜水ヘルメットの中に最高級ムーブメントを収めることにした。さらにこれまで見たことのない一体型ブレスレットをデザインした。テーパーをつけたリンクを使っていて製造はとても難しい。ダイヤルの針とアワーマーカーは微妙にルミナス素材をつける。サンバースト模様のコバルトブルーダイヤルのベースにクル・ド・パリ装飾のギヨシェ模様。平凡にならないようスモーキーな仕上げにする」
「これら全てが最初のスケッチの中に盛り込まれていた!八角形のフォルムは8個のビスを留めるため。ベゼルの上にビスをのせるスペースがいるからだ。この新しいシールは存在感のあるリップタイプのシールでなければならない。ベゼルと一体構造(モノコック)ケースの間にはめる。モノコックケースは既に市場に出ているが安物に使われている」
「ビスは六角形でヘッドをベゼルの上に出す。下からロックしているので回らない。これを全部、一晩で仕上げた!まさにクレイジー。どんな魔法が舞い降りてこんなものを一晩で創り出したかわからない。本当に驚きだ!」

インスピレーション、神話と伝説
ロイヤル オークの誕生のステップを見て行く前に、そのインスピレーションソースと伝説、レジェンドを見てみましょう。ロイヤル オークのデザインは多くの要素から様々な影響を受けています。1930年代から60年代のオーデマ ピゲウォッチの素晴らしいデザインを自然に踏襲し、1960年代から70年代にかけてのコンテンポラリー建築の要素も取り入れました。。コンテンポラリーアートや建築、音楽で世界を揺るがしていた文化的なうねりのようなものの一部です。
ロイヤル オークという言葉の象徴的な意味については、現存のオブジェとも関連づけて多くの仮説が広められてきました。良く言われていることの一つに、ベゼルの形と8個のビスは、英国海軍ロイヤルオーク艦の銃眼や舷窓からデザインしたものだというものです。しかし、これらの銃眼は八角形であったことはないし、8個のビスもついていません。ロイヤル オークという名前は、ウォッチが始めデザインされた時から一年半も後についたものだというのも根拠がありません。これについては後にも述べます。
ジェラルド・ジェンタは子供の時に見た潜水員のヘルメットにインスパイアされたと言っていました。防水性との関連は否定できないと思いますが、八角形のフォルムには別のソースがあるのではないかと思われます(8個のボルトを締めた潜水ヘルメットが存在していたかどうか?)これについてはオーデマ ピゲ ミュージアム前ディレクターのマーティン K.ウェリー、及び同時期の他の証言があります。ジュネーブのヴァラン通り2番地の小さなオーデマ ピゲ事務所に小包の秤があったのですが、それが八角形のフォームだったということです。これが何らかの間接的な影響を与えたと考えるべきでしょうか?そうかもしれません。
オーデマ ピゲ経営委員会の副会長で創立者の四代目に当たるオリヴィエ・オーデマは、表に出て見えるビスというのは力強いシンボルであると説明します。1972年当時、ビスを表に出すことは一種の反抗精神を示唆するもの、機械的耐久性、技術性、頑強さを明確に表現するものだったと言います。六角形のビスが締められているので、絶対に回して開けられない金庫のようなケースというミステリーがそこにあります。金庫のメタファー(スイスは銀行のひしめく国)が適切なのは、超頑強なスティールケースの中に一部がゴールドのムーブメントが収められているからです。クォーツのテクノロジーが時計産業全体に脅威をもたらしている時、機械式の伝統的な宝を守ることにより、ロイヤル オークは時計製造のヒーローとなったのです。
スティールを高貴なものに格上げしたという点について、もう一つの解釈があります。一般的なメタル(スティール)をハイエンドのステイタスに押し上げたのは優れたクラフトマンたちでした。この解釈は400年前のもう一つの逸話を思い出させます:英国のチャールズ2世がクロムウェルとの戦いにおいて、王の命を救ったオークの木に高貴な称号を与えたということです。この木の名をとってウォッチをそう呼んだという話には、なるほどと思わせるものがあります!その流れでは、いくつかの文献でウォッチのスティールを英国ロイヤルオーク戦艦のスティールに結びつけているものもあります。

観察から主張へ
しかし、ロイヤル オークを注意深く観察すると、八角形のフォルムはデザイン的洗練を追求した純粋な結果であると思われます。ジェンタは六角形のビスをつけるには広いベゼルが必要だったと言っています。バランスをとるため、ジェンタはビスの間の距離を縮め、8つのコーナーを作りました。でもなぜ8個なのでしょうか?。多分縦と横のサイドがトノー型のケースにぴったりとフィットするからでしょう。そして上と下の部分がダイヤルをきちんと取り囲み、ビスもブレスレットのスタッドと並ぶことになります。ジェンタはさらにベゼルの1/3を面取りし、ウォッチのデザインを洗練されたものにしました。ジェンタはもともとジュエラーでした。ケースとブレスレットのクリーンな面取り、手作業によるミラーポリッシュ/サテン仕上げの組み合わせにより、ダイヤモンドのファセットのようなきらめきを出そうとしたと言う人もいます。
それぞれの人が自らの感性とインスピレーションでロイヤル オークを解釈し自分のものにしています。ジェラルド・ジェンタはインスピレーションソースについて聞かれた時、こう答えています:「創造的なデザインとは、まず身の回りにあるもの全てを無意識に観察しているところから生まれる。脳の中にはデータが蓄積されている、そしてある状況になった時に一種の主張が現れる。存在しないものを創り出そうとするからだ。だから観察であり、同時に主張でもある」



アイデアからケースのプロトタイプへ
1970年4月11日、ジェラルド・ジェンタがバーゼルフェアの小さなオーデマ ピゲのブースのショーケースにウォッチを並べている時、ジョルジュ・ゴレイがスケッチを広げました。スケッチはカルロ・デ・マルキたちを圧倒的説得力で納得せたのです。
ゴレイがこのグッドニュースをジェンタに告げた時、彼はゴレイに珍しい注文をつけました:「これはとても特別なものなので、プロトタイプ制作に関わりたい。どこのメーカーに行くべきか教えてほしい」ジェンタは後にこう述べています:「僕はとても明確なアイデアが頭の中にあって、どんなものを作りたいかはっきりわかっていた」。このアプローチは珍しいものでした。というのはジャック=ルイ・オーデマ(オーデマ ピゲの共同創立者の孫であり経営委員会の当時の会長)は、製造だけでなく新製品開発も熱心に監督していたからです。
ジェンタはまずラ・ショー・ド・フォンという小さな時計づくりの村にあるウォッチケースメーカーのファーブル&ペレのところへ行き、プロジェクトについて話し合いました。1865年創立のこのメーカーはゴールドウォッチケースとブレスレットを専門としており、1999年にスウォッチグループが買取っています。スティールは扱ったことがありませんでした。ジョルジュ・ゴレイがなぜこのメーカーを選んだのか、ジェンタは当惑しましたが、この選択は正しかったと言えます。伝統のクラフトマンシップ、最高級の装飾、職人技を継承し中核としてきたメーカーだったからです。二つの課題が残っていました:ファーブル&ペレの職人たちに既知の世界から飛び出し、ゴールドと同じように繊細な仕事をスティールで実現してもらうための説得。そしてこれまでにない 防水のモノコック ケース構造を開発することを伝えたのです。
ジェラルド・ジェンタに返ってきた答は:「いや、それは無理です」デザイナーは熱っぽく語りました:「でもこれは革命なんです!誰もがあっと驚くはずです!」彼はデザインの詳細を説明しました:「ラバーシールは上縁に二つの傾斜をつける…ベゼルは広くしてビスのヘッドが無理なくはまるように、そしてビスの軸は防水ガスケットの邪魔にならないように」モノコックケースの構造はとても画期的で特殊なものだったので、プロトタイプはホワイトゴールドで作ることが即座に決まりました。
1970年6月16日、4個のプロトタイプがファーブル&ペレに発注されました。それはオーデマ ピゲのレターヘッドに記されていましたが、珍しいことにジェラルド・ジェンタが署名していました。彼はオーデマ ピゲの社員であったことは一度もなく、常に独立デザイナーであると自負していたからです。さらに発注はスティールが1000個、ゴールドが100個となっていました。これはオーデマ ピゲでは前代未聞の数量でした(ジェンタはスティールウォッチの採算をとるため最低1000個が必要と説明)、同時にゴールドもまだオプションとして残されていたことを示します。



ダイヤルの創造
「タペストリー」ダイヤルはロイヤル オークの最大のデザインコードの一つであるにもかかわらず、いくつかの状況が重ならなければ陽の目をみることはなかったでしょう。有名なコレクター、企業家で同名のオークションハウスの設立者であるヘルムート・クロットは、2020年に出版された彼の著書「ダイヤル、20世紀の腕時計の顔」の中で語っています。
ジュネーブにあった会社ラ・ナショナルで1970年頃、7台の古い機械を使いこなせる最後の職人がいなくなり、機械が使われなくなるという状況になりました。これらのエングレービングマシン、より正確には「ギヨシェコピー」マシンは、数十年前からゴールドのライター、ペンやシルバー/ゴールドの煙草ボックスに幾何学模様や植物のタペストリー パターンを彫るのに使われていました。ラ・ナショナルはこれを無駄にしないよう、近隣のダイヤルメーカーステム・フレールスにこれを譲り、注文が入っている分を仕上げてくれるよう頼みました。スターンは実は20世紀の最高のダイヤルメーカーです。パテック フィリップ(1932年にスターン家が買い取った)、ヴァシュロン・コンスタンタン、オーデマ ピゲなど最高級ブランドのダイヤルを製造してきました。
ロラン・ティーユは当時スターン・フレールのデザインディレクターでした。使い方が非常に難しかったにもかかわらず、彼はこの古いマシンの秘める潜在性を理解しました。ジェラルド・ジェンタが彼に会いに行き、ロイヤル オークの将来について話をした時、ティルはこのマシンをジェンタに見せました。そこにはそれぞれ異なったデザインの300の付属テンプレートもついていました。二人はプロトタイプのために13種類のデザインを選び、その中にT21(タペストリー21)というものも含まれていました。そしてこれがロイヤル オークのために選ばれたのです、その後プチタペストリーと名づけられたこのパターンは、数百の小さなピラミッドで構成されています。同時に数万個の菱形のくぼみが整然と並び、これが繊細な光の反射効果を生み出します。
ナイトブルー、クラウド50
ギヨシェ パターンとは違い、ダイヤルの色はジェラルド・ジェンタのオリジナルスケッチに既に示されていました。プチタペストリーのように複雑な表面に色をつけることは非常に難題です。多くの小さなディテールから色が剥がれてはならないし、厚すぎて光の反射を妨げてもなりません。ペイントだと小さな菱形のくぼみが埋まってしまいます。そこで電解浴によりダイヤルに非常に薄いカラー層をつけることになりました。スターンの職人たちは、ブルーというのは最もムラが出やすい難しい色であると知っていました。浸漬の時間を秒単位で調整し、液を正確に調合し、温度を一度単位で調整しても、シリーズの全てのダイヤルを同じカラーで出すことは不可能なのです。初期のロイヤル オークのダイヤルは手づくりで、色もギヨシェの仕上がりもやや違います。
電解浴の後、職人たちがザポン と呼ぶ酸化防止のためのほぼ透明なラッカーをかけます。スターンのアーカイブによると、モデル5402(最初のロイヤル オーク)のダイヤルは「ナイトブルー 1 + N50」と記されています。N50というのはニュアージュ 50 (クラウド50)です。クラウドはブルーダイヤルにかけるラッカーの中に黒の染料を少量落とすことにより得られるカラーです。
キャリバー 2121
ロイヤル オークに搭載するためオーデマ ピゲとジェラルド・ジェンタが選んだのは、世界最薄のデイト付機械式自動巻きムーブメント、有名な キャリバー2121(2120の派生ムーブメント)。厚さ3.05ミリ、径12½ リーニュ(28 ミリ) のこの有名なキャリバーを、時計師たちはトラクターと呼びます。非常に薄いにもかかわらずパワーと信頼性、耐久性が高いことが評価されてのニックームです。
キャリバー2120は1967年、3つの有名なメーカーの 協力のもとに生まれました。この3社はそれまで製造と販売において互いに緊密な絆を築いていました。ルクルト社、オーデマ ピゲ、そしてヴァシュロン・コンスタンタンです。 1964年6月9日にオーデマ ピゲがエボーシュの主要サプライヤーであるルクルト社に送った書簡には、それが非常に重要であるが、同時に非常に困難であることが書かれています:「もう3~4年も私たちは顧客を待たせている。超薄のラグジュアリーウォッチの専門メーカーである私たちが、自動巻となるとなぜ最も厚いウォッチの一つになってしまうのか、理解できる人がますます少なくなっている」3つのメーカーの幹部が合同会議を開きました。1966年8月19日、ジャック=ルイ・オーデマ(オーデマ ピゲの経営委員会会長でクリエイティブディレクター)は、ルクルトのマニュファクチュールで、アンドレ・ゴワ(ヴァシュロン・コンスタンタンのゼネラルマネジャー代理)、ジャン・ルベ(ルクルト社の技術部長)、モーリス・オーデマ(キャリバー2003と2120の設計者とされる)と会議を行いました。
1967年、オーデマ ピゲ5271 モデルに初めてキャリバー2120が搭載されました。セントラルローターはベアリング式(特許システム)で“Audemars-Piguet”と彫印され、トータルの厚みは2.45ミリ。ジェンタのデザインで同年に10モデル以上が製造されました。この時からオーデマ ピゲの製造部門ではキャリバーが重要な役割を占めることとなり、1967年には650本のウォッチに搭載されます。1970年に発表された派生キャリバー2121はデイトを加えたため厚みが3.05ミリに増しました。2021年末まで全てのロイヤル オーク “ジャンボ”ウォッチ に搭載されました。
ゲイ・フレールが作った最初のブレスレット
ジェンタがデザインしたロイヤル オークブレスレットは、最初の一体型スティールブレスレットとはほど遠いものでした。それでもスティールブレスレットとしてはこれまでで最も複雑なもので、154個の部品を使い、うち異なるサイズの部品が34個ありました。デザインと技術の工夫によりそれまで別のものだった二つの世界を結びつけました:オーデマ ピゲが数十年にわたり得意としてきたジュエリー発祥のクラフトマンシップ、そしてオメガやロレックスといったブランドの大規模ロットの防水ウォッチコレクションに見られるスティールのスポーツブレスレットです。求められたのは、芸術的なクラフトマンシップにのっとった初めてのスポーツブレスレットを製造すること。
これを可能とするため、オーデマ ピゲはジュネーブにある著名なブレスレットメーカー、ゲイ・フレールを選びました。1835年にジャンピエール・ゲイとガスパール・ティソが創立したこのメーカーは、当社はチェーンを専門としていましたが、20世紀に入ってからウォッチブレスレットに特化していました。有名になったのはロレックスの調達先であったため(ロレックスが1998年に買収)で、特にオイスターのブレスレットを製造していました。その他にも主要なスイスウォッチブランド、パテック フィリップ(ライスグレイン ブレスレット)やショパールにも納入していました。1970年代にはスティールブレスレットに関して自他ともに認める第一人者でした。ジュネーブのアトリエにはオーデマ ピゲの5倍の規模となる500名以上の職人がいました。
しかしその経験と優れた設備をもってしても、ゲイ・フレールの職人たちはオーデマ ピゲの求める仕上げレベルに到達することができませんでした。従って、ファーブル&ペレ社が製造したケースと同様、ブレスレットについてもル・ブラッシュの時計師たちが、ケーシングの工程の間に手作業で修正を加えなければなりませんでした。1972年以降も、求められる品質とエルゴノミーを実現するための改善が続けられました。特にケース取付部分のブレスレットのリンクのテーパーを完璧に仕上げるという点です。ロイヤル オークコレクションが拡大するに従い、他のいくつかのメーカーがこの高邁な目標を持つ繊細な製造に挑むため協力しました。フォンタナ、ラスコール、GTF、セントロールの各社で、これらは現在オーデマ ピゲ メイランの子会社となっています。
バーゼルで最初のプロトタイプが発表され、そして…ジェンタが去る
1971年4月、ジェンタの最初のスケッチから丸一年が経過していました。バーゼルフェアの開幕日が近づいています。ジョルジュ・ゴレイは例の「三銃士」に特別にロイヤル オークのホワイトゴールドのプロトタイプを見せることにしました。オーデマ ピゲがとてつもないものを作ったことはすぐ明らかになりました。カルロ・デ・マルキとシャルル・ボーティはそれぞれ400本ずつを注文することを決めました。トータル800本です。ジョルジュ・ゴレイはまず1000本をスティールで作ることを決めました。残り200本は世界市場のどこかで売れるだろうと予測した訳です。開発はもう一年続きましたが、それはジェラルド・ジェンタ抜きで行われました。
ジェンタは企業家精神が強かったので、舞台裏から表に出て自らのブランドを立ち上げたいとしばらく前から思っていたのです。そして1969年にこの方向に舵を切り始めていました:「ひそかに自分のコレクションを準備していた。そして1969年12月25日にフレッドと会合をし、120本のウォッチの注文を受けた」
オーデマ ピゲとの関係はジェラルド・ジェンタが1972年、バーゼルでベゼルに13個のゴールドのネジがあるウッドウォッチを自らのブランドとして展示した時に終了しました。



1,000本限定モデル?
1971年5月19日、ジャック=ルイ・オーデマはファーブル&ペレ社に1,000本のスティールケースを発注しました。これはオーデマ ピゲが1つのモデルで発注した数量としては最大のものです。この数字がどのような意味を持つのか理解していただくためにお話しすると、1971年にAPが販売した6217本のウォッチには237種の異なるモデルがありました。さらにそれぞれのモデルが異なるダイヤルと素材で展開されていたのです。100本以上の数量のモデルは23種だけで、145種のモデルは10本以下、55種のモデルは単品でした。
その中で、最初のロイヤル オークモデル 5402が6,000本以上も製造されたのは特筆すべきことです。しかし1971年の時点では1,000本ものロットを製造することは考え難く、ル・ブラッシュのクラフトマンたちを驚かせただけでなく、ブランドの昔からの顧客の中にも疑念を持つ人々がいました。
いくつかのソースによると、ジェラルド・ジェンタとマーティンK.ウェリー(オーデマ ピゲミュージアムの前ディレクター)は、ジョルジュ・ゴレイがモデル5402の製造数を1,000本に限ったのは、ロイヤル オークをオーデマ ピゲ初の限定モデルにしようと思っていたからだろうと言っています。ジェンタによると、この時計が大きな成功を収めたので、当初のプランを捨てて製造数を増やしたということです。「ゴレイはロイヤル オークをどんどん製造し続けることに懸念を感じていた。なぜなら嘘をついたことになってしまうからだ。彼は品質を最も大切にする人だから」
アーカイブの資料によるとどうでしょうか?最初のケース発注書には、一つ一つのウォッチのケースバックに特別なエングレービングを施すと明確に記されています。「6時位置の下に1から1000までの特別の続き番号を記してください」ロイヤル オークができた途端にオーデマ ピゲのウォッチの続き番号システムが変わったことが特筆されます。1から始まり1本に一つの番号をつけていたところへ、「小番号」が加えられたのです。この件は「ロイヤル オークの番号システム」という別の記事で詳しく述べられています。.
でもジョルジュ・ゴレイは製造数を1,000本に限ったわけではありませんでした。限定モデルというアイデアを捨てることなしに、このコンセプトからうまく抜け出したのです。1972年のある広告がこれを示しています:「ロイヤル オークの限定モデルは番号がついている」一方でこの広告コピーは製造は限定されていることを示していますが、限定数を示してはいません。さらにフランス語の「限定シリーズ」 は複数になっているので、モデル5402の A、B、C や D などのシリーズが存在することが可能です。



特許
1971年12月6日、オーデマ ピゲは最初のデザインから一年半後に正式な特許出願をスイス連邦知的財産局に行いました。ジェラルド・ジェンタは発明者として記載されています。
特許は「防水ウォッチケース」という名称で、1974年9月に出願され1975年1月に認可されています。特許の保護内容は「非常に簡素で効率的な構造で新しい外観の防水ウォッチケース」となっています。テキストにはビスの周囲で水が浸透するリスクについては述べていますが、ビスが酸化を防ぐためゴールドで作られることはまだ記されていません。

名前がついた初のAPウォッチ
新しい時計シリーズの名前を決めるというのはなかなか難しいプロセスです。名前は価値観、歴史、特徴、豊かな意味の世界を感じさせるもの、さらに覚えやすく、世界各地の言語で発音しやすいものでなければなりません。1971年のオーデマ ピゲはそれまでシリーズとなるウォッチを作ったことがなかったため、名前を考えるのに苦労しました。それまではモデルのリファレンス番号で識別するか、コレクターがつけたニックネームがあるというだけです。
1971年5月、オーデマ ピゲの新しい八角形のウォッチにつけられた仮の名前はライオン狩りを思わせるものでした。ジャック=ルイ・オーデマはケースの発注書に「サファリ」と記しました。モデル開発に参加した時計師のドニ・キャプトは「エクスカリバー」という名前も候補に上がっていたことを覚えています。ジェンタは、インスピレーションの元となった潜水、または特許取得に結びついた防水性に関するものが良いのではないかと思っていました。(数年後にノーチラスでそれを実現します)しかしこのアイデアにはいくつか問題がありました。まずダイバーズウォッチの世界は1960年代に人気が高まり、新たなスポーツセグメントとなりました。ダイバーズウォッチは技術規格が決まっていて、(将来の)ロイヤル オークは100m防水ではあっても規格の全てを満たしているわけではありません。次にもっと大きな理由として、この時計は複雑なデザインと外観を併せ持っていること、非常に薄く、繊細な手仕上げ、特にサテンとポリッシュ仕上げの組み合わせ、ギヨシェ ダイヤルなどの要素があり、ダイバーズウォッチとかスポーツウォッチの枠にとどまらない存在だったからです。
1971年9月13日の会議の議事録には、名前がまだ全然決まらない様子が記されています:「サファリウォッチ:…名前が呼び起こすべきイメージはスポーツ、広い空間、男性らしさ(適切なスローガンと共に)挙げられた候補:グランプリ/ディアンヌ/サー フライダー/コロラド/キリマンジャロ/キャニヨン/オックスフォード/アスコット/イェール/など」。1971年12月2日になって初めてロイヤル オークという名前がブランドのアーカイブに現れます。
当時の証言として大きく一致するのは、イタリアのエージェントのカルロ・デ・マルキが、最近メタルで強化されたロイヤルネイビー(英国海軍)のロイヤル オーク戦艦からその名をとってはどうかと提案したことです。それから英国王チャールズ2世がクロムウェルとの戦いの中、国王がオークの木に潜んで追手をやり過ごし命が助かった、それで王はこの木に高貴な名を与えたという逸話にもうなずけるものがありました。「ロイヤル オーク」という名は多くの解釈ができる可能性を持っています。騎乗の戦い、海軍の戦い、航海と制覇、隠れた宝物、危機を生き延びる王、高貴な鎧、命を救う木:世界に開かれ、ストーリー性にあふれる名前です。


広告エージェントを探す
ロイヤル オークの発売に合わせ、オーデマ ピゲは特別なキャンペーンを企画することに決めました。これもまた未知の経験です。それまでキャンペーンというとブランドのものであり、多くのプロダクトをそこに盛り込んでいました。
1970年代はブランドイメージという考え方がまだ確立していませんでした。一方で、主要市場ではエージェントと大きなリテイラーたちが自らの広告キャンペーンを行っていました。例えばフランスの市場ではオーデマ ピゲの広告はドゥトラベラ / ヴァシュロン・コンスタンタンが行っていました。これらのキャンペーンはそれぞれローカルなものでしたから、ブランドイメージは市場により異なっていたのです。平行してオーデマ ピゲは、スイスの広告エージェントに国際キャンペーンの企画を依頼しました。ル・ブラッシュにはまだマーケティングチームも、その前身といえるものさえありませんでした。宣伝はジョルジュ・ゴレイが直接に担当しており、広告代理店とのやりとり、また新聞の広告まで直接に交渉していました。
1960年代、オーデマ ピゲはローザンヌにある広告代理店トリオ アドバタイジングをよく使っていました。この会社はスイスの時計の広告とマーケティングの先駆的存在で、バーゼルフェアの公式プレスであるJournal Suisse d’Horlogerie(スイス時計ジャーナル)の発行元でもありました。しかし60年代の終わりにジョルジュ・ゴレイは代理店を変える必要がありました。アーカイブからは彼がなぜ気持ちを変えたかは分かりませんが、当時の状況からその理由を推測することができます。トリオはパワフルなSSIHと非常に近い会社でした。しかし1969年のAPとSSIHのディストリビューション合意(上述)の後、ジョルジュ・ゴレイはなるべくこちら側に自由な交渉の余地を残しておくため広告代理店を変えようと思ったのでしょう。例えるなら、全ての卵を一つのかごに入れないということです。よくあるように、友人同士でカードゲームをしている時に決めたのかもしれません。その中にル・ブラッシュでスキージャンプ大会のプロモーションを行っていたユーゴ・ブシャーの広告部長のジルベール・マイヤールがいたかもしれません。ジョルジュ・ゴレイは大会の会長でその主要プロモーターの一人でもありました



ユーゴ・ブシャー
今日ユーロパスターEuropa Star HBM 社として知られるこの1927年創立の家族経営会社はその頃、有能な創立者ユーゴ・ブシャー(1896–1961)の名前を冠していました。この優秀な起業家はトランスマリンウォッチブランドの創立、雑誌の出版、営業などに才能を発揮しました。大変な働き者で多くの時計マガジンを南米、アジア、アフリカ、スペイン、スイス、中東、ポルトガルで発行していました。1961年に亡くなった後、会社は嫁婿のジルベール・マイヤーが受け継ぎました。そして彼はジョルジュ・ゴレイの友人だっただけでなく、ジェラルド・ジェンタの同級生でもあったのです。
ユーゴ・ブシャーは当初出版社でしたが、業務の一部として写真、スローガン、グラフィックデザイン、広告、販売戦略などを扱う広告代理店も行っていました。この業務が拡大したため1975年にジルベール・マイヤーとハインツ・ハイマンは会社を二つに分け、独立した広告代理店を設立しました。この会社が1998年までオーデマ ピゲのプロモーションを行っていたのです。ここで1960年代終わりに戻ります。
1969年から1971年までユーゴ・ブシャーのキャンペーンはオーデマ ピゲのイメージを明確にし新鮮な輝きを添えてプロモーションを行いました。オーバーサイズのAPロゴ、グリーン、ゴールド、ブルーなどの明るいカラー、そしてプロダクトに焦点を当てたのです。この時期から20年間にわたり、最も使われたスローガンは「最もプレステージの高いシグネチャー」というものでした。



ロイヤル オーク キャンペーンの準備
ロイヤル オークほど強い コンセプトを持つプロダクトは、広告代理店にとっては希少な存在です。ロイヤル オークのロゴはブシャーのオフィスで手直しされたかもしれません。チームはテキストの作業に取りかかりました。1972年2月、メッセージは既に明確になっていました:「高い目標をもつ活動的な男性は、もう普通のスポーツウォッチには満足しない。常に動きの中にあり求めるものは常に高い:多彩な活動、胸躍る人生にぴったりフィットする完璧なウォッチ。このエリートのためにオーデマ ピゲのクラフトマンと時計師はロイヤル オークを生み出した。ゴールドより耐久性に優れ現代の主役といってよいメタル(スティール)へのトリビュート、希少なクラフトマンシップにより磨き抜かれた比類ないプレシャスなウォッチ」
1972年4月まで、高品質のウルトラシンムーブメント、八角形のフォルム、六角形のビスをアピールしながらテキスト、写真、リーフレット、広告の練り直しが続きました。広告キャンペーンの中で最も力が入れられた二つの要素は「スティールへのトリビュート」、そしてデザイン/スポーツ/ノウハウ/革新を一身に集めるウォッチという点です。これは現代生活のメタファーであり、ウォッチのターゲットである人々のパーソナリティでもありました。当時レンジローバーが車の世界で同じようなアピールをしていたこともつけ加えておきましょう。1973年始めにはチャールズ2世の話、ロイヤル オークの木、クロムウェル、英国海軍ロイヤルネイビーの戦艦などの話がブックレットに紹介されるようになりました。
1972年9月13日の資料によるとオーデマ ピゲの1972年の広告予算は950,000スイスフランで、その半分以上が広告でした。その資料では内訳としてロイヤル オークの分の記載はありませんが、1972年のロイヤル オークの製造と売上額が全体の6-7%であったことに較べずっと多かったことでしょう。資料ではその背景にある関連の要素という重要な事実にも言及しています。「世界中のAPの顧客により行われた宣伝広告の額も知るべきであろう」ここでいう顧客とは輸入業者、エージェント、リテイラー(小売店)などです。
炎の試練を前に最終仕上げ
ロイヤル オークの開発は発表後もずっと続きました。しかし1972年のバーゼルの数ヶ月前は忘れることのできない状態でした。テンションが高まり、熱気を帯びて悪い風邪にかかったかのようでした。ウィルフレッド・ベルネイは2020年に書かれたドキュメントの中に、このウォッチは「モンスターのような…と言われているが、私たちがしたこと、できること、つまりミニチュア化とオープンワークとは何の関係もない言い方だ」と書かれていることを指摘しています。彼が感じたことは:「この大きなスティールのタイムピースはコレクションと何か関係あるのか?。幹部の話によると、イタリア市場がスポーティでスティールの変わったウォッチがほしいと言っているということだ。つまりイタリア人たちが牛耳っている…私たちが決めるべきではないか!」
これに関わっていた時計師のフレディ・キャプトは最初のスティールのプロトタイプを組み立てましたが「図面らしいものもなく、ほとんど本能で組み立てた」と言っています。また、最初の六角形のビスはステンレススティールでできていましたが「すぐ錆びることが多かったのでステンレスとは言えなかった、そしてケースを分解することもできなかった」ことを覚えています。アングルはあまりに綺麗なカットでシャープなものでした:「時計師たちは手作業の研磨ツールでアングルを丸めなければならなかった」彼も同僚たちも仕事の後、家に部品を持ち帰り「微調整」を続けることが珍しくなかったといいます。
フレディ・キャプトのアトリエはジャック=ルイ・オーデマとジョルジュ・ゴレイのオフィスの隣にありました。葉巻をいつもくゆらせていたジョルジュ・ゴレイがある朝、憂鬱そうな顔をして現れたことを覚えています:「私たちは間違っている。スティールウォッチをこんな価格で売ることはできない!」そして「売れなかったらムーブメントを回収して、ケースとブレスレットを捨てるんだ」と言ったことを覚えています。
84名しかいない会社だったので、検査ラボを設けることは予定に入っていませんでした。フレディ・キャプトはよく覚えていますが、時計の防水性を試験するため、ジャック=ルイ・オーデマは窓際に水さしを置き、「世界で一番塩辛い水」というラベルが見えるようにし、その中にロイヤル オークをぶら下げていました。
1972年4月12日、ル・ブラッシュ。バーゼルフェア開幕は3日後にせまっていました。ケーシングアトリエチーフのポール・ハイツマンが、自ら最初のロイヤル オーク20本を組み立てました。番号は67001 から 67020 です。偶数はイタロメガ(イタリア市場)向け、奇数はガメオ(スイス市場)向けでした。そのうち4本がバーゼルに旅立ちました。
ネジがアキレス腱
2020年の資料によると、ウィルフレッド・ベルネイは初期の頃の最大の苦労はクラスプが大きすぎたため、ブレスレットのテーパリングをスタッドと追加リンクで補正しなければならなかったことです。しかしそれにもまして、8個のビスは当初スティールで作られていたと言います。海水がしみ入り「ビスを塩分でコーティングし」、錆びついてケースにくっついてしまうというのです。「ジェンタの有名な潜水ヘルメットが開けられなくなってしまった。幸いなことに中に誰も入っていませんけどね!」そこでビスを酸化しにくいゴールドで作るという解決法が考えられました。1972年には早速このパーツで動いていました。返品に対して時計師たちは熱心に修理に取り組み、新しいツールを作ったりして時計を最初の状態にちゃんと修復していました。ウィルフレッド・ベルネイの説明によると、ビス回りに水が入ってもムーブメントまで届くことは殆どない。ムーブメントはオーバーサイズのシールで守られており100m防水を保証しているとのことです。ケーシングの記録を調査してみると、確かにこの品質が守られていることがわかりました。1972年に販売した最初の100本のロイヤル オーク ウォッチのうち、1982年までの間に防水不良で返品されたのは4本だけでした。初期のロイヤル オークの問題はこうして速やかに解決され、コレクションは晴れやかに拡大することになりました。

「世界で一番高価なステンレススティール ウォッチ」
ウォッチの発売に移る前に、価格ポジショニングについて見てみましょう。これは時計業界を最も驚かせた点です。ロイヤル オークの価格が当時の広告にも記載されていたからかもしれません。1972年、ロイヤル オークの価格は3300スイスフランでした。時を経て、またタイトルにもより価格は少しずつ変わっていますが大体3650~3750スイスフラン(1975年)、756ポンド(1974年)から1100ポンド(1976年)、そして1950ドル(1976年)位でした。
現在のコンテンポラリー スティール ウォッチに較べると大きな差があります。一次資料がないので、当時の関係者とコレクターの証言を引用します。マルコ・ストランゲリーニが2016年7月に出版したロイヤル オークガイドの中でこう言っています:「イタリアでは、ロレックスのサブマリーナーはこの1/3もしなかった、IWC のインヂュニアは1/4以下だった」ジェラルド・ジェンタは2009年のコンスタンタン・スティカスによるインタビューの中でこう言っています:「当時最も高価なスティールウォッチは850スイスフランだった」つまりロイヤル オークはスティールケースなのに、ゴールドウォッチと同じ位の値段だったのです。時にはより高いことさえありました。1972年のオーデマ ピゲ カタログでは例えば、ウルトラシンキャリバー2003搭載のイエローゴールドモデル5043は2990スイスフランと記載されています。
代理店のユーゴ・ブシャーはこれを逆手にとり、ロイヤル オークの高い価格を強力なメッセージとして使いました。いくつかの広告はほとんど挑発的でもありました:「スティールの何がゴールドより高価値にさせるのか?」、「レンブラントをカンバスのために買いますか?」、「ゴールドの価格をしたスティール」、「世界で最も高価なスティールウォッチ」等々。テキストはこう説明しています:ロイヤル オークの価格が高いのはそのケースと、ミニチュア化の最高峰である極薄自動巻きキャリバー2121の製造が非常に複雑なものであるためだ」。テキストはまた、工芸職人たちの優れた仕事、希少性と伝統の繊細な技術をアピールしています。「スティールはオーデマ ピゲのデザイナーたちにより、高貴なものに昇華した」。
メッセージは理解され、評価されたと言えるでしょう。中でも1974年の小売店向けパンフレットのタイトルは「なぜオーデマ ピゲは世界一高価なウォッチなのか」となっています。評価の声はロイヤル オークだけにとどまらず、クラフツマンたちの仕事を讃える時も同様の表現が使われました。
このような表現はジュネーブのパテック フィリップでも使われるようになります。1976年、ノーチラスウォッチを発表した時には「世界で最も高価なウォッチの一つ」という言い方をしました。特に「マスタークラフトマンの熟練技術」、「フォーマルもレジャーも」多様に楽しめるウォッチ、1400ポンドと謳っています。



公式発表と最初の反応
1972年、バーゼルフェアは第5ビルを新しく加え、トータル20,000 平方メートルの会場で開幕しました。この年に初めてフランス、ドイツ、イギリス、イタリアのブランドも受け入れたため、翌年は「欧州時計宝飾フェア」と名称を変更しました。
オーデマ ピゲはホール1のブース545で60 m2ほどの広さ、ロレックスと同じ位です。向かい側には2倍ほどのロンジンのブース、そし4倍ほどの20,000 のスタンドがありました。並びにはヴァシュロン・コンスタンタンとジャガー・ルクルトがあり、決して寂しくはないロケーションといえます。オーデマ ピゲのアーカイブ資料によると、時計市場のプロたちと一般見学者が見た4本のプロトタイプは、67002から67004のケース番号プラス小さな番号2から4がついていました。他方、この記録にはエキシビション自体や受注について、またロイヤル オークに関する直接の証言が何もなく、ブースの写真も展示ケースの写真も残っていません。スイス時計ジャーナルには全く報道されず、ヨーロッパスターにキャプション付の写真が2枚掲載されただけでした。さらに驚くべきことに、ジョルジュ・ゴレイが1973年5月3日にオーデマ ピゲ経営委員会に出した1972年の年次報告書で、この新モデルのことが一切触れられていなかったのです。「プロダクトに関しては1972年はあまり変化はなかった」と書かれているのです。不思議なほど沈黙が保たれていました。
しかしいくつかの証言は、このウォッチはセンセーションを巻き起こしたと語っています。1975年から1999年の間にAPのモデルを殆どデザインしたジャクリーヌ・ディミエは2006年、こう語っています:「この春のバーゼルフェアでは、あちこちから人が集まりオーデマ ピゲのショーケースに見入っていた。驚きと共に、私たちはなぜかよくはわからないが、伝統の時計製造と将来の産業デザインとを結びつける一つのステップに今やっと私たちは足をかけているという思いに駆られていた」。ジェラルド・ジェンタはエベルのトップだったピエール=アラン・ブラムが会いにきたと言っていました。「あなたにおめでとうと言いたい。今オーデマ ピゲのブースから戻ってきたところだ。友人のペランのためにロイヤル オークを注文した」。当時ブラムはカルティエのマストコレクションの全てを作っていました。そのカルティエの社長がアラン=ドミニック・ペランでした。時計市場の枠を超えて、ロイヤル オークはすでに当時の最も偉大なコレクターの一人、イランのパーレヴィ国王を納得させていました。プロトタイプのプレビューを見てホワイトゴールドの最初のモデルを注文した国王は、回りの人のためにスティールモデルもたくさん注文していました。
しかし評価だけだったわけではありません。批評は書かれたものが残っているわけではないのですが(当時はソーシャルメディアはありませんから)、当時関わっていた人々からのヒントによるとこのウォッチは厳密なオートオルロジュリーの世界にスキャンダルを巻き起こしたということです。ジョルジュ・ゴレイが1973年にスイス市場にオファーをかけた時、「このウォッチのことでオーデマ ピゲが話題となっていた」こと、そして「疑念を持っている顧客たちがいた」ことを覚えています。1992年、マーティン K.ウェリーは「オーデマ ピゲ モノグラフ」の中でこう述べています:「時計市場はオーデマ ピゲがステンレススティールウォッチを3,650スイスフランで発売するという発表を疑念を持って受け止めた」。ジェラルド・ジェンタは「成功のデモンストレーションではなかった…」とも言っていました。2013年のインタビューでジャスミン・オーデマは「最初、ロイヤル オークは多くの批判を受けた」、それは「当時の慣習をはみ出した」からだったと語っています。




納入の第一弾
1972年に販売責任者だったマーティン K.ウェリーが2017年に書き未発表になっている備忘録によると、このウォッチを最初に買ったのは「ロンドンのガラードからのロン・スミスだった」となっています。女王陛下の御用達サプライヤーであった彼は、ただ一言で煙に巻いています。「ロイヤル オークというのはここではパブの名前」。同じ資料の中で「番号が1の時計は1974年7月8日に初めてハリー・ウィンストンのディレクターに納入された。ケース番号は67001、ムーブメント番号は127006だった」と記されています。
最初の数ヶ月間は文字通りのカオスでした。大規模製造はまさに挑戦であり、実戦の中にいきなり飛び込むようなものでした。部品がなかなか揃わない上に、組立を何度もやり直さなければなりません。4月に完成した20本のうち、最初の5本は5月2日にイタリア市場に納入されました。製造の方は5月末までに結局10本しか完成しませんでした。6月には95本完成しましたが7月には8本に落ちます。
しかしアトリエのクラフトマンたちは少しずつ困難を乗り越え、8月からは納入数が急増しました。そして1972年トータルで565本のロイヤル オークが完成し、うち490本が納入されました!こうして発表から8ヶ月の間にモデル5402は、同じモデルの一年間の販売数として最高の記録を達成したのです。賭けは成功したのでしょうか?それは小売店が最終消費者にウォッチを売ったかどうかにかかっています……ル・ブラッシュにリピートオーダーをかける前に。



ビジネスは成功、それとも失敗?
2010年代からロイヤル オークの初期の販売戦略の失敗は、歴史的に見てもコンセプトの間違いだったことが見てとれます。ロイヤル オーク40周年を記念して出版した本の中で、マーティン K.ウェリーとハインツ・ハイマンはこう言っています:「二つの主要市場でさえも、400個の割り当て分を売り切るのに丸三年かかった…そして1974年のある日、フィアットの会長であり産業界の大ボスであるジョヴァンニ・アニェッリが、腕にロイヤル オークを着けて公けの場に現れました。その日からウォッチは爆発的に売れ出して、驚くべき物語が始まったのです」
別のソースによるとまた違う話があります。1973年3月、ジョルジュ・ゴレイはロイヤル オークを「ベストセラー」だと言っていました。1973年5月に彼はこう書いています:「ロイヤル オークは顧客の一部がその購入のモチベーションを変えたことを証明している」。8月22日に彼は広告予算を50%増やしました。同時にエンジニアを採用して技術部門を作り、マニュファクチュールの拡張工事を始めました。オーデマ ピゲの売上額は1973年の1300万フランから翌年は1800万フラン、そして1975年には2500万フランと急上昇しました。1982年2月6日のインタビューで、ジョルジュ・ゴレイはロイヤル オークについてこう言っています:「成功はすぐにやってきた」。2011年フラマリオンから出版されたオーデマ ピゲの本には「市場での非常に大きな成功により」、会社は「製造の規模を変え、従来の製造プロセスを見直し更新した」と記されています。
これらの数字は何を意味するのでしょうか?1972年にスタートし、ロイヤル オークは1973年に500本近くとなります。翌年は618本となり、1976年までは600本弱あたりで安定し、その後ゴールドバージョンが出てから1978年に820本に拡大しました。50年後の現在から見ると少ない数のように思えますが、当時としては目を見張るものだったのです。


物語の始まり
1972年の発売から最初の数年間、スイス市場では年間150から200本が売れ、アジアもほぼ同様でした。ロイヤル オークはドイツ市場でも売れるようになりました。フランスではあまり多くはありませんが安定した販売数で推移していた時、サプライズはイタリアからやってきました。ロイヤル オークの誕生に関わった一人であるカルロ・デ・マルキはこれを売るのに苦労していました。そのことはジェンタも言っています。1972年、イタリア市場のイタロメガに89本が納入されました。1973年には35本に落ち、翌年は31本、そして1975年と1976年には36本と44本というように、なかなか伸びきれないでいました。オーデマ ピゲの販売アーカイブによると、イタリア市場では1971年に発注した400本のやっと半分を越したというところでした。「ジョヴァンニ・アニェッリ」効果はあったのでしょうか?人々の記憶には残ったかもしれませんが、実際の販売数にはあまり反映しなかったように見えます。それでもまだ一つ未知の要素があります。イタリアから小売店がスイスに直接ウォッチを買いにきていたという可能性です…どちらにしてもロイヤル オークは1976年から1977年にかけて、ゴールドまたはバイカラーの29ミリと35ミリのバージョン(モデル8638、4100とバリエーション)でイタリア市場を魅了したことは事実でしょう。
このように賛否両論はあったにしても、またそのためにこそ注目を集めたロイヤル オークは、やはり成功を収めたウォッチと言ってよいでしょう。こうして1,000本限定だったAシリーズが、2,000.本に拡大されました。1975年にはBシリーズを投入、その翌年にCシリーズ、1978年12月にはDシリーズが投入されました。.モデル5402はトータルで6050本を売り、そのうち4288本がスティールで 876本がゴールドとスティールのバイカラー。736本がイエローゴールド、150本がホワイトゴールドでした。さらに重要なことは、1976年にレディースが加えられたことです。このモデル8638 は ジャクリーヌ・ディミエのデザインによるもので、その後にモデル4100 が続きました。こちらは径がさらに小さく、センターセコンド針がついていました。 12種もの素材、サイズ、様々なコンプリケーションが展開され、ロイヤル オークコレクションは成長して行きました。
新たなアイコンとなったロイヤル オークにインスパイアされたモデルが、スイスのブランドから次々に登場しました。ジェンタは数年後にパテック フィリップに依頼され、別のスティールウォッチをデザインしました。ノーチラスです。同様にジェンタは1976年にIWCのインヂュニアのデザイン見直しました。他のデザイナーたちもロイヤル オークに大いにインスパイアされて時計市場は成長して行きました。一つの例はジョーグ・イゼックがデザインしたオーバァーシーズ222モデルで、これは1977年にヴァシュロン・コンスタンタンから発売されました。
| シリーズ | 5402ST A シリーズ |
5402ST スモールナンバーなし |
5402ST B シリーズ |
5402ST C シリーズ |
5402ST D シリーズ |
5402ST レターなし |
スティール合計 | 5402SA | 5402BA | 5402BC | ゴールド合計 |
総額: 5402 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 総額: | 1937 | 129 | 845 | 952 | 404 | 21 | 4288 | 876 | 736 | 150 | 1762 | 6050 |
| 1972 | 490 | 490 | 1 | 1 | 491 | |||||||
| 1973 | 543 | 543 | 543 | |||||||||
| 1974 | 614 | 2 | 616 | 616 | ||||||||
| 1975 | 243 | 120 | 228 | 591 | 591 | |||||||
| 1976 | 7 | 569 | 10 | 586 | 586 | |||||||
| 1977 | 13 | 5 | 23 | 459 | 500 | 92 | 95 | 1 | 188 | 688 | ||
| 1978 | 4 | 3 | 234 | 1 | 242 | 299 | 231 | 50 | 580 | 822 | ||
| 1979 | 6 | 7 | 223 | 15 | 251 | 180 | 122 | 45 | 347 | 598 | ||
| 1980 | 10 | 7 | 15 | 129 | 161 | 92 | 135 | 37 | 264 | 425 | ||
| 1981 | 2 | 4 | 5 | 87 | 98 | 126 | 51 | 5 | 182 | 280 | ||
| 1982 | 2 | 4 | 70 | 76 | 39 | 22 | 3 | 64 | 140 | |||
| 1983 | 1 | 53 | 54 | 9 | 19 | 2 | 30 | 84 | ||||
| 1984 | 1 | 1 | 20 | 22 | 6 | 23 | 29 | 51 | ||||
| 1985 | 10 | 10 | 6 | 9 | 2 | 17 | 27 | |||||
| 1986 | 1 | 6 | 7 | 6 | 13 | 19 | 26 | |||||
| 1987 | 1 | 1 | 5 | 7 | 10 | 3 | 13 | 20 | ||||
| 1988 | 7 | 5 | 12 | 2 | 8 | 2 | 12 | 24 | ||||
| 1989 | 1 | 1 | 1 | 10 | 13 | 4 | 3 | 1 | 8 | 21 | ||
| 1990 | 6 | 6 | 3 | 2 | 5 | 11 | ||||||
| 1991 | 1 | 1 | 1 | |||||||||
| 1992 | 1 | 1 | 1 | |||||||||
| 1993 | 1 | 1 | 1 | 1 | 2 | |||||||
| 1994 | 1 | 1 | 1 | |||||||||
| 2002 | 1 | 1 | 1 |
結論
ロイヤル オークは単なるウォッチというだけでなく、デザインと文化のオブジェ、時代の象徴です。1972年に高級時計の常識を覆しました。文化と芸術の変遷のさなか、スイス時計産業始まって以来の危機の夜明け、金融危機とオイルショックの悪化など、渦巻く多くの影響の中に生まれました。その誕生に関わった全ての人の貢献の賜物です:SSIHのエージェントが顧客の新たな感性を見抜き、オーデマ ピゲにこの挑戦を勧めました。ジョルジュ・ゴレイは創造の過程で人々に勇気とインスピレーションを与えました。ジェラルド・ジェンタはマスターピースを何と一晩でデザインしました。一流のダイヤルメーカー、時計師、ケースメーカー、広告業者たちがロイヤル オークを豊かに育て、洗練させ、美しく仕上げることに尽くしました。非凡なウォッチを誕生させるため彼らが注ぎ込んだ才能、ノウハウ、情熱。そこから伝統に根ざし未来を見据えるウォッチが生まれたのです。
1982年、ジョルジュ・ゴレイはこの成功についてこう語っています:「一目で美しく、エレガントでスポーティ。これまでのウォッチはとてもエレガントか、とてもスポーティかのどちらかだった」。つまりロイヤル オークは時計業界で初のスポーツシックを体現するラグジュアリースポーツ ウォッチなのではないでしょうか。
編集:オーデマ ピゲ ヘリテージ チーム、ル・ブラッシュ
初版:2022年1月24日








































































































































