
熟練のストーリー
まとめ
知られざるスキルの盛衰
ロイヤル オークのタペストリーダイヤルは、特別な「エングレービングマシン」、より具体的には「ギヨシェ複製マシン」の存在なくしては生まれなかったでしょう。その数奇な運命は今ここで初めて語られます。
物語は、ジュウ渓谷とル・ブラッシュから数百キロ離れた、標高1000メートルほどの土地にある小さな時計製造の町、ラ・ショー・ド・フォンで始まります。オーデマ ピゲは1875年、ここに小さなアトリエを開きました。当時ラ・ショー・ド・フォンはすでに工業化が始まり、町は「時計製造メトロポリス」とのニックネームを得ていました。労働分業がかなり進んでおり、ドイツの思想家カール・マルクスが著書資本論の中で使っていた言葉「工場都市」のような典型的な都市の様相を示していました。全ての種類のアトリエはここに集約され、機械工から町の芸術学校で学んだクラフツマンたちまでがそれらのアトリエに集まっていました。
1890年の終わり頃、アール・ヌーヴォーの植物モチーフを施した懐中時計が人気を呼ぶようになりました。エングレービングとギヨシェが施され、多くの場合エナメルで仕上げられていました。細密画家と彫版師たちは注文をさばくのに大忙しでした。このような状況の中で、1895年にロベール=アルフレッド・リーンハルトがエングレービングの機械を発明しました。後にロイヤル オークのダイヤルに使われることになる機械の前身です。この繊細な機械は、懐中時計のカーブした表面にさまざまな装飾を施すために設計されたものです。彫版師たちは、自らの手がもつスキルに競合するようなこの機械の登場をあまり歓迎しませんでした。このような手作業と機械のバトルのようなものは昔からあり、そのためにクラフツマンたちは常に自らのスキルを磨き続け、限られた市場をめぐって闘っていたのです。しかし結局ラ・ショー・ド・フォンの彫版師たちを不利な状況に追い込んだのはエングレービング機械ではなく、1920-30年代に市場に現れた腕時計の存在でした。懐中時計はケースやケースバックの面積が大きいため、装飾を施すことができましたが、腕時計は小さいためエングレービングやエナメルの細密画のような装飾ができません。需要がなくなったため、彫版師にとっても機械にとっても仕事の機会は急激に減少しました。
リーンハルト社は新しいアイデアのツールと新たな市場を開発することが必要でした。その取り組みの中で、彼は平らな表面だけを加工する簡素化したエングレービング機械を開発しました。対象はウォッチダイヤルでしたが、同時に多くの新しいオブジェ、ジュエリー、ライター、シガレットケース、ミラーなどにも使うことができました。こうして時計業界以外においても成功を博し、機械は米国やカナダに輸出されました。スイス国内には数台が残り、ほとんどはジュネーブのラ・ナショナルというメーカーに出荷されました。


ラ・ナショナル社からスターン・フレール社へ
2019年、ドイツの著名なコレクターであり、実業家、そして同名のオークションハウスを創設したヘルムート・クロットは、長年の調査の後に、ジュネーブの高級ダイヤルメーカー、スターン・フレール社を題材に、「ダイヤル:20世紀の腕時計の顔」という本を出版しました。
このリファレンスブックを著すにあたり、彼は当時のクラフツマンたちの証言を集めました:ジュネーブの「スターン・フレール社の隣にあったラ・ナショナル通称LNのことを覚えている人がまだいるだろうか。このメーカーはウォッチのリューズやライターなどの金属部品の専門メーカーだった。優れたギヨシェ職人が急死したことから、LNはこの希少な専門技術を維持することができるだろうかと懸念した。そこで、その時に入っていた50枚ほどの注文をダイヤルメーカーのスターン社に代わりに製造してくれるよう頼んだ。顧客はモヴァドで、そのダイヤルは当時の複製マシンで作られていた」ここで著者が「エングレービングマシン」ではなく「複製マシン」と表現していることに気づかれたかもしれません。彼は続けます:「スターン社は ラ・ナショナル社が持っていた7台の複製マシンを受け取り、同時に300ほどのデザインパターンを継承した」
1970年、ロラン・ティーユはスターン社のデザイン部門を率いていました。彼はこれらの機械が複雑ではあるが素晴らしい能力を持っていることを見てとりました。この技法にタペストリーという名前をつけたのは彼で、こう語っています:「私が使っていた呼称が定着するとは思っていなかった!」ヘルムート・クロットの本に戻りましょう:「その同じ年、ジェラルド・ジェンタがロイヤル オークのダイヤルの開発についてロラン・ティーユに相談した。ティーユは彼の手にあるエングレービングマシンをジェンタに見せ、その能力について自信を持って説明した。二人はこうしてタペストリー装飾のサンプルをいくつか一緒に作ってみることにした。その13のサンプルの中からオーデマ ピゲが選んだバージョンが、今日までブランドのDNAの中に宿っている」著者は「ダイヤル製造の最高峰の技術の一つ」をよみがえらせることを可能とした「驚くべき偶然の重なり」について感嘆せずにいられません。パテック・フィリップのノーチラスも、ロイヤル オークに続き同じマシンで作られたことも記しています。
3つのスキルを集約
タペストリーの技術はエングレービング、ギヨシェ、パントグラフィーという3つの伝統的なスキルが交差するところに生まれました。最も古いのは数千年前に生まれたエングレービングのアートで、全ての文明の彫刻、絵画などで使われています。熟練職人は丸ノミ、細ノミ、彫刻刀、研磨棒などを使い、神話や狩猟の場面、文字、花、紋章、アラベスク模様などを表現します。彫版師はこうして文字通り何でも表現することができます。時計製造では16世紀からこのアートが現れ、置時計、ペンダントなどに使われていました。今日に至るまで、オーデマ ピゲではオープンワークのムーブメントやローターやダイヤルのオーダーメイドバージョンに使われています。
タペストリーに関する2つ目のスキルは数世紀前からのギヨシェの技術です。1718年のピーター一世皇帝の複製旋盤、1712年にバヴァリアのマックス・エマニュエルのためにフランソワ・ウアールが作ったギヨシェ旋盤(ローズエンジンとしても知られる)を挙げることができます。これらのマシンで熟練職人たちが行ったエングレービングは、直線、曲線、波線などを並べたり絡ませたり交差させたりして金属の表面を装飾し、光が美しく反射する抽象的な幾何学的パターンを表現していました。18世紀以降はフランス、次にスイスでギヨシェ技術は機械化し、懐中時計のケースの装飾が行われました。モチーフはカムに「プログラム」され、それが回転しながら位置をシフトさせ、ギヨシェパターンを彫り出して行きます。アブラハム=ルイ・ブレゲは彼のウォッチに クル・ド・パリ、大麦、かご織などのモチーフを使い、このアートを広めるのに貢献しました。
3番目のスキルはパントグラフィーです。「専門図解時計辞書」によるとパントグラフとは「図絵を機械式に複製する器具。 関節のようなアームをもち、パターン(マトリックスやモデルとも呼ばれる)を使い、時には拡大や縮小もできる」とされています。ラ・ショー・ド・フォンの国際時計博物館が保管しているダイヤルの中には、肉眼では見分けられないほど微小なパントグラフによる表現があります。パントグラフは1840年代以降ヴァシュロン・ コンスタンタンでも使われ、手作業による修正が不要なほど精密な部品を製造し、結果、交換が可能なように設計されていました。
タペストリー 模様はこのような3つのスキルを組み合わせてできるものです。エングレービングにように、ノミを使って彫り出し、ギヨシェのように機械式の旋盤を使い、そしてパントグラフィーのようにパターン(マトリックスまたはモデル)のデザインを大きさを変えて再現する事ができます。
タペストリーの技術的な原理
エングレービングマシの原理は技術的にはシンプルなものです。2枚の丸い金属板が同じスピードで回転します。1枚目には複製する元のパターンやモデル(タペストリー)が大きく描かれています。金属板が回転すると、フィンガー(フィーラー)がタペストリーのレリーフに沿って動いて行きます。山に登ったり谷を降りたりするような感じです。パントグラフのシステムにより、2番目のプレート(ダイヤル)をノミが様々な深さで彫り込みます。フィーラーの動きを機械的に複製しながら小さなサイズに縮小して再現します。ノミはフィーラーに接続し制御されて動きます。つまりフィーラーが谷に降りるとノミは深く彫りこみ、上昇するとノミの彫りは浅くなります。
加工はダイヤルの外周から始めます。一周するごとにノミの動きは少しずつ中央に近づき、最後にはダイヤル全体をカバーします。ロイヤル オークのダイヤルでは1ミリをカバーするのに11周を必要とします。ヘルムート・クロットによると:「ダイヤルの表面には渦巻きのような溝が現れているのが肉眼で見える。ノミが描き出したこのラインは、ウォッチ全体のデザインをアピールする。もっと細かに観察すると、浮き彫りになったパターンは2番目のフィーラーに接続した歯車が描き出す粒のようなストラクチャーに見える。このフィーラーはメインフィーラーがパターンの底に降りる時に振動する」これらの小さなドットは小さなダイヤモンド形をしていて、その4つの内辺が光を反射します。ドットの数はどの周回も同じなので、ダイヤルの中央に近づくにつれドットは外周部よりも狭まって行きます。これが交差した曲線を描き出し、輝くようなムワレ効果を生み出すのです。
タペストリーは難しいアートです。2011年から2021年までオーデマ ピゲのギヨシェアトリエのチーフだったマーク・フェルランドは、この話なら何時間でも続けることができます。機械のセットと調整には非常に多くのパラメーターがあり、それら全てをマスターするには、知識と勘、観察力、聴覚が必要だと言います。というのは「機械が歌う」のを聴いて、クラフツマンはその柔らかで安定した振動により、ダイヤルが期待されたものになるかどうかを感じとるからです。このマスターワークが達成されるのは、ダイヤルの全体にギヨシェ模様が一つのメタルシェービングのように完成された時です。「りんごの皮をぐるっとむきながら、最後まで皮を一つに保つようなもの」ともいえます。機械は基部に至るまで全てのディテールが重要です。基部は微小な衝撃を吸収するよう、当時は木製にしていました。現在、機械の基部は「耐振脚」の上に乗っています。
プチタペストリーが決めた命運
5402のバリエーションについて述べた記事の中で、T21タペストリーの特徴について詳細に語っています。これは最初のロイヤル オークのダイヤルで、現在プチタペストリーとして知られるものです。頂上をカットしたピラミッド、そのバリエーション、50,000個以上の小さなダイヤモンド形、ナイトブルー、クラウド50のカラー、6時位置のAP モノグラム、12時位置の AUDEMARS PIGUETシグネチャー、ホワイトゴールドのトリチウム針とアワーマーカーなどについて説明されています。
プチタペストリーのモチーフは30年以上にわたり、数十種類以上のダイヤルを飾ってきました:20ミリのミニ ロイヤル オークから44ミリのロイヤル オーク グランドコンプリカシオンまで、その中には初のクォーツモデルも、パーペチュアルカレンダー、ジェムセットバージョンもあります。色もブルー、スレート、ブラック、グリーン、サーモンピンク、そしてレッドまで様々に展開されました。これらのダイヤルの一枚一枚にいつも微細な違いがあったのはこれがハンドクラフトだからです。このパターンはロイヤル オークの根幹的なデザインコードの一つです。でも8個のビスや八角形のベゼルのように、オーデマ ピゲに必ず使うべきというものではありません。1970年代の終わり、ロイヤル オークがコレクションになった頃から多くのモデルがタペストリーを使わずに、サンドブラストやブラッシュ、ハンマー仕上げのダイヤル、また天然石、マザーオブパール、サファイア、さらにはダイヤモンドフルパヴェのダイヤルを登場させています。このような多彩な展開がコレクションを成長させ、新たな地平を開きました。2000年が近づいた頃、ジャクリーヌ・ディミエとAPデザインチームは伝統的なタペストリー 模様を一新することにしました。
グランドタペストリー模様の誕生
ある決定が商品委員会の会議で行われました:翌年の春に向けて、ダイナミックで明確、発展的なタペストリーのパターンを開発することです。製造技術は同じですが、頂上をカットしたピラミッドのベースを2倍ほど大きくすることが考えられました。従って、ピラミッドの数が大きく減ることになりました。ロイヤル オーク "ジャンボ"のダイヤルではピラミッドの数は680から740の間でしたが、新しい 「グランドタペストリー」 のパターンでは380ほどしかありません。
1999年、半世紀ほど忠実に出展を続けたバーゼルフェアを離れ、オーデマ ピゲはジュネーブで1991年から始まった国際高級時計サロンSIHHに初めて出展しました。市場の反応をさりげなく見るために、二つのモデルだけがグランドタペストリー模様を使っていました:ロイヤル オーク アニュアルカレンダー25920と、オーデマ ピゲ財団が進める持続可能な発展プロジェクトをサポートする450本限定モデルのロイヤル オークTime for the Trees 15100です。それに加え、当時コレクションのなかでもクラシックとされていたモデル14790にもグランドタペストリーが使われました。
市場の反応は抜群でした。2000年には新しいタペストリー模様がロイヤル オーク コレクションの殆どのモデルに使われています。モデル14790、15000、5594、25960、25730、25820などです。両方のバージョンが共存するものも、新バージョンだけのものもありました。その中でも新作ロイヤル オーク "ジャンボ"モデル15202が注目を集めました。1972年のオリジナルのデザインコードを復活させただけでなく、サファイアクリスタルのケースバックを通して搭載ムーブメントを見せていました。しかし何よりもそのスター性は、輝くシルバーカラーのグランドタペストリー ダイヤルにあります。プレスはこれを「メイクオーバー」(再現してさらに超える)と呼びました。
翌年には プチタペストリー模様はロイヤル オークコレクションから消えてしまいます。ただし全く消え去った訳ではなく、2012年のロイヤル オーク40周年記念モデル15202に再登場します。その間、もう一つのサプライズの後ろに静かに控えていたのです。
グランド…エクストラグランド…メガ!
ロイヤル オーク オフショアコレクションは長い間、オートオルロジュリーの奔放児のように思われていました。オーバーサイズ、恐れを知らず自由奔放。1993年の誕生時には市場を揺さぶりました。しかし2001年以降はプチタペストリー模様の伝統を守り、コレクションの殆どのモデルに使っています(25721、25770、25807、25854、79290)。その後は少しずつ グランドタペストリー のモチーフを使うようになりますが、オフショアはプチのバージョンを生かし続けました。オリジナルのモデル25721のいくつかのバリエーションは、少なくとも2007年まで使い続けています。
ロイヤル オーク オフショアはオリジナルに忠実でありながらも、自由を愛するコレクションです。デザイナーが腕をふるう舞台、革新的素材と明るいカラーを好むオフショアは2001年、グランドタペストリーよりも大きなタペストリーモチーフをモデル25940SK(ラバーベゼル付) に採用しました。カタログでは当初エクストラ グランドタペストリーと呼ばれていましたが、2005年からはメガタペストリーと呼ばれるようになります。そして徐々にオフショアコレクションの中に存在感を増すようになります。2002年にはモデル67450、2003年にはモデル26007、 25986、25863、2004年には26020といった具合です。
究極のスポーツと耐久性を象徴し、頂上をカットしたピラミッドはより安定感のある広がりを持つようになりました。さらに2つの点で既存のウォッチとは違っています:サイズ、そして製造技術です。形状は伝統的な タペストリー模様から生まれましたが、製造はプレスを使ったスタンピングによるものです。2021年に、さらに複雑なメガタペストリー のモチーフが、43ミリのロイヤル オーク オフショアモデル26420と共に登場しました。このダイヤルではスクエアが「ミニアーム」によりつながり、スタンピングのパターンには縦方向のスネイルモチーフが加わっています。
さらにつけ加えておくと、ロイヤル オークオフショアは2013年にプチタペストリーをリバイバルさせた(20本限定の26218アニバーサリーモデル)だけでなく、25周年のアニバーサリーモデル26237STにもこれを使い、コレクションに登場させました。
自由に生き続ける
ジュネーブのダイヤルメーカー、スターン・クレアシオン社は2000年にリシュモングループに買い取られました。同グループは南アフリカに本拠を置く持株会社で、カルティエ、ヴァシュロン・コンスタンタンを保有する他、ちょうどジャガー・ルクルトを傘下に入れたところでした。しかしオーデマ ピゲはこのメーカーからエボッシュの大部分を調達していたのです。このような動きはクォーツの登場によりスイス時計業界に起きた再編の流れの中にありました。LVMH、スウォッチグループ、リシュモンインターナショナルなどの大きな持株会社は少しずつ、昔からのムーブメントブランクやケース、ダイヤル、針のサプライヤーたちを買取り、傘下に統合していったのです。
このとき、オーデマ ピゲのオーナーであったポレット・ピゲとジャスミン・オーデマは、創立者の三代目と四代目として経営にあたっていました。実務についてはジュウ渓谷出身で最高の時計師との声が高かったジョルジュ=アンリ・メイランが統括していました。オーデマ ピゲは独特の企業文化をもち、独立を保つという意識と気概に強く支えられていました。長期的に独立を保つために、ここで決断をすることが必要となりました:オーデマ ピゲは社内一貫製造体制を作ることを決めたのです。このプロセスは1990年と2000年代に、機械式ムーブメントから始まりました(キャリバー2120の歴史に関する記事を参照)。その次の10年間、オーデマ ピゲはダイヤル製造を社内に取り入れました。しかも最も難しいスキル、タペストリーのアートをもってこれを始めたのです。



クラフトの成就
2004年、オーデマ ピゲは社内一貫製造体制を加速させるため、ブルーノ・ムタルリエを迎えました。意志が強くカリスマ性のあるブルーノ・ムタルリエはロボット工学を修めた後、カルティエで時計製造のキャリアをスタートさせました。彼はル・ブラッシュのオーデマ ピゲが2000年から2010年の間に従業員350名から1100名以上に、また年産16,000本から28,000本へと急成長した時代にちょうど関わったことになります。
ブルーノ・ムタルリエは入社するとすぐに、スターン・クレアシオン社がオーデマ ピゲの急増する需要についていけないであろうことを見てとりました。納期は遅く、品質にはムラがあり、返品も増えてきていましたが、このジュネーブのダイヤルメーカーはその熟練技術でほぼ市場を独占していました。ギヨシェの タペストリー模様を加工できるメーカーは他におらず、しかもこのエングレービングマシンはもう製造されていません。リーンハルト社は競合メーカーのギュデル社に1960年に吸収され、そのギュデルは1970年代の終わりに製造を停止していました。最後の希望としてブルーノ・ムタルリエは中古の機械がないかと探し始めました。しかし欧州にある機械は全て、大きなグループに吸収されたダイヤルメーカーが買い取っていました。ただしメダル彫版メーカーが使っていた機械が米国に3台あるのを見つけました。彼はこれを買い取ってスイスに持ち帰り、ジャン=ジャック・ロシャに託します。ロシャは1973年にオボンヌ村に小さなメーカーを開いた天才的な精密機械エンジニアで、オーデマ ピゲの要請を受けて機械を分析して理解し、元の状態に復元しました。偶然としか言いようがありませんが、ジャン=ジャック・ロシャはちょうどこの時、よく似た機械の修理を頼まれたところだったのです。それはスターン・クレアシオン社からのもので、そのおかげでロシャは貴重な情報を得ることができました。
星座がぴったり並ぶとはこのことでしょうか。2006年に、オーデマ ピゲのアフターサービスを6年間務めたカナダ出身の時計師、マーク・フェルランドがギヨシェ加工の習得を始めました。当時この技術は消失の危機にありました。スイスにこれができるクラフツマンは片手で数えるほどしかおらず、その中にラ・ショー・ド・フォンに住む76才のピエール・ローゼンベルグがいました。体も弱くなっていた彼ですが、何度か入院した時を除いては隔週の予定を組み、若い時計師にこの技術を懸命に教え、技術を継承しました。

ル・ブラッシュにタペストリーのアトリエをオープン
その間にブルーノ・ムタルリエは、同様の機械をいくつか米国とカナダで見つけました。これを輸入し、修理してその使い方を自ら研究して学びました。オーデマ ピゲの製造部長はこうして夕方になると作業着に身を包み、昔のように油の匂いのする中で手を真っ黒にして古い機械を動かすことに取り組んだのです。2010年に、ギヨシェのタペストリーダイヤルの最初の300枚のロットがアトリエを出ました。カラーリングとトランスファー印刷、アップリケについてはまだスターン社が行っていました。その翌年、マーク・フェルランドはアトリエのチーフとなり、製造は9,000枚に急増します。それ以来アトリエは成長を続け、新たな技術を開発しクラフツマンたちを育てています。
2014年6月14日、スターン・クレアシオン社はギヨシェダイヤルの製造を含む全ての製造活動を停止することをオーデマ ピゲに通知しました。この時にはオーデマ ピゲはタペストリー模様を完全に習得していました。それだけでなく、マーク・フェルランドは2006年から2011年にかけて学んだギヨシェのスキルに加え、それを改良してそれまでにないレベルへと向上させていました。ダイヤルごとのわずかな違いは肉眼では見えませんでしたが、機械は同じで手で調整をしていたのです。世界に存在する同様の古い機械を探し入手してきた結果、2022年現在、オーデマ ピゲはこれを49台所有しています。その全ては1950年から1976年の間にリーンハルト社または後継のギュデル社が製造したものです。そのうち35台は改修され改良された上で、アトリエで日常的に使われています。その他は将来に備えて大切に保管されています。
編集チーム:オーデマ ピゲ ヘリテージ チーム
初版:2022年1月24日

































































































