
ロイヤル オーク II:初のレディースモデルの誕生
まとめ
ロイヤル オークは生まれつきマスキュリンなのか?
時計の歴史解説によると、1972年の ロイヤル オークモデル5402は、メンズのマスキュリンなウォッチとしてデザインされました。1970年4月、デザイナーのジェラルド・ジェンタが潜水夫を見た時の記憶にインスパイアされ、ビスが表に出たベゼルをデザインした時、レディースのことは多分考えていなかったでしょう。1971年9月、オーデマ ピゲと出版社ユーゴ・ブッシャーはこの将来のアイコンウォッチの名前について最初考えたイメージは「スポーツ、オープンな空間、男性らしさ」でした。1972年のキャンペーンでは「見識あるアクティブな男性」とはっきり書かれており、ウォッチの素材にかけて「ハガネの男」との表現まであります。
ロイヤル オークの初めての革命がレディースであったことは、どう説明したら良いのでしょうか?モデル8638 は伝説的なモデル5402がゴールドで登場する前の1976年に発売されました。「すべての男の陰には女がいる」という諺がありますが、ロイヤル オークにはその誕生時から女性的なものが埋め込まれていたと思われます。アメリカのウォッチエキスパートで歴史家のマイケル・フリードマンは、ジェラルド・ジェンタはまずジュエラーであり、その宝飾的な感性は彼の多くの作品に現れていたと言います。例えばケースとブレスレットの多くのファセットが、ダイヤモンドのように光とたわむれ、きらめくこと。腕時計が生まれてから最初の数十年間、メンズウォッチには必ずと言って良いほどレザーストラップがついていました。 メタルブレスレットは女性っぽいと考えられていたのです。つまりロイヤル オークは1972年にすでにフェミニンなタッチを内包していたということです。その後、社会と文化の変化によりウォッチのジェンダーについても変遷がありました。

ウォッチにおけるジェンダー
歴史的には、ウォッチが女性的か男性的かは特に重要な要素ではありませんでした。16世紀から17世紀には、時計はメンズかレディースかを特に意識せずに作られていました。どちらかというとまず希少性や価値の高さで識別されていたのです。またどのようなウォッチを着けるかは、社会的ステイタスを表していました。身につける時は男性も女性もネックレスという形で身にまとっていました。
この習慣が18世紀頃から変わってきます。レディースウォッチは少しずつ、牧歌的な情景、花・植物などのミニチュア エナメル画で彩ったり、貴石をセットしたりするようになります。ウォッチのミニチュア化が進み、時にはジュエリーと見分けがつかなくなるほどでした。同時にヨーロッパでは19世紀から、男性はカラフルなものやジュエリーから離れ、ダークスーツを身につけるようになります。メンズウォッチのデザインは地味になる一方で精度が高くなり、最もステイタスが高いとされたのはコンプリケーションでした。20世紀になりメンズもレディースも腕につけるリストウォッチとなりますが、ジェンダーの違いは存在していました。ただし1960~1970年代に文化的な革命が起こり、区別に曖昧さが生じてきます。


オーデマ ピゲ レディースウォッチのルーツ
1875年以来、オーデマ ピゲのレディースウォッチの大部分はメンズウォッチと2つの点で違っていました。一つは華奢なサイズ。これは今日も続いています。女性の華奢な手首に合わせてタイムピースはミニチュア化され、極限まで小さくしたものもありました。しかし製造はとても難しくなり、機械式ムーブメントは高価なものとなりました。
次に、レディースウォッチは装飾が多いことです。ケースやブレスレットにファインストーン、貴石をセットしたり、エナメル、パールで飾ったりします。この二番目の特徴は一番目ほど強くはありません。19世紀からすでに、例えばペンダントリピーター ウォッチにダイヤモンドがセットされていることは稀でした。1920年代と戦後の経済成長時代には、変わったデザイン、かっちりとしたライン、複雑で大胆な幾何学的ライン、抽象的なテクスチャー、非対称のフォルムなどが現れます。一方で派手ではない落ち着いたウォッチはレディースロイヤル オークにつながり、徐々にジェンダーの違いがあいまいになる方向に向かってきました。
災難の間近で
初のレディースロイヤル オークのプロジェクトは1973年に始まります。この頃、オーデマ家とピゲ家の三代目の世代はまだ毎日アトリエで働いていました。しかし1967年以降、ブランドの経営に立ったのはジョルジュ・ゴレイです。1945年から会社の近代化に努めてきたビジョンと起業家精神をもつ経営者です。ロイヤル オークの成功に後押しされ、オーデマ ピゲの従業員は1972年の84名から2年後には125名と、50%の人員増となりました。同じ時期に売上は倍増し2500万スイスフランとなりました。
この嬉しい成長のさなか、世界の経済状態には危険なものが迫っていました。1971年に米国は金本位制を廃止し、世界の経済が不安定化します。リチャード・ニクソン大統領の決定により、ドルは金の固定した価値と交換されなくなったのです。1973年、第一次石油ショックが起き通貨が不安定な時期が10年ほど続き、インフレが進み金価格が上昇し、1978年には第二次石油ショックが起きます。これで戦後の経済成長ブームは完全に終わりました。 スイス時計産業はほとんど輸出に依存しており、この危機、特にスイスフラン高に大きな打撃を受けました。これに加えて日本とアメリカからエレクトロニクス大手のクォーツウォッチメーカーが急激に進出してきます。10年間に1000社のスイス時計メーカーが倒産し、業界の2/3の雇用が失われました。
オーデマ ピゲはハイエンドのポジショニングといくつかの大胆な決定に支えられてこの危機を切り抜け、1974年から1984年の間には従業員数を2倍に増やし、年間製造数を9,000から11,000本に増やしました。

ロイヤル オーク II:ラディカルな存在
このような危機は、そうでなければ生まれないような大胆なアイデアを生み出すことにつながりました。初のレディースロイヤル オークが生まれたのもこれと無関係ではありません。思い出してみてください、ロイヤル オークは1972年、ベゼルの表面にビスを見せ、スティールを高貴な素材として扱ったことで大きな論争を呼びました。当時スティールは中価格帯とハイエンドのメンズウォッチに既に多く使われていましたが、華奢なレディースウォッチはほぼ全て貴金属でした。表面に出したビスは耐久性、パワー、テクノロジーを象徴し、これらは長い間男性的な資質と考えられてきたものです。
これらのデザインコードをレディースウォッチに使うということは挑発的というだけでなく、ある種のマニフェスト(政治的主張)でもありました。ジョルジュ・ゴレイとジャック=ルイ・オーデマはこれにはっきりと気づいていました。それにこのウォッチをより柔らかなゴールドで作った方が、ダイヤモンドセットにも好都合であることも知っていました。さらに、このウォッチには小さな手巻きキャリバーかクォーツを使った方が、希少でデリケートなミニチュア自動巻きムーブメントより簡単なことも知っていました。しかしオーデマ ピゲは困難な道を選び、"ロイヤル オーク II"を開発するにあたりいかなる妥協も許さなかったのです。

初めて自社でデザインされたウォッチの一つ
オーデマ ピゲは当初の100年間、デザインを外部のデザイナーに発注していました。その中で最も優れた功績を残したのはジェラルド・ジェンタです。20年ほどオーデマ ピゲのデザインに貢献した後、ロイヤル オークのデザインを最後に自らのウォッチブランドを作りました。
しかし、ジョルジュ・ゴレイはもっと長期的なプランを考えていました。ピアジェは1967年からレインボーセットの発案者として知られるジャン=クロード・ゲイトを採用し、社内のデザインチームを強化していました。オーデマ ピゲの経営にあたるジョルジュ・ゴレイは、デザインチームを社内に持つことを決めたのです。1972年、ジュウ渓谷出身、弱冠21才のジャン=フレッド・メイランを起用しました。採用書類にはジュエラー(宝飾師)と記されています。3年間にわたりジャン=フレッド・メイランは数多くの極薄モデルをピュアなデザインで飾りました。その中で最も有名なモデルには、当時登場したテレビにインスパイアされたTVスクリーン型のダイヤルをアピールしたものがあります。オーデマ ピゲの初の高振動キャリバー クォーツウォッチ、モデル6001もデザインしています。これは1974年に発表され注目されましたが、ケースが厚めのためかあまり好まれませんでした。
彼のブランドでのキャリアは結局短く終わり、オーデマ ピゲは1975年1月6日に、当時業界でも珍しかった女性デザイナーを採用します。ジャクリーヌ・ディミエの当時の採用名簿にはスタイリストと記してあります。ジャン=フレッド・メイランよりも経験の深いジャクリーヌはその後24年間にわたり、オーデマ ピゲの殆どのウォッチをデザインしました。

ジャクリーヌ・ディミエ
グラフィックデザイナーのトレーニングを受けたジャクリーヌ・ディミエは、ジュエリーからオブジェデザインの世界に入りました。ジュネーブを本拠とするデザイナーにとって、時計のキャリアに移ることはごく自然なことでした。数年のうちにパテック・フィリップ、ヴァシュロン・コンスタンタン、ロレックスのデザインを受注するようになります。仕事は非常に評価が高く、ロレックスは社内デザイナーのポストをオファーし、ジャクリーヌは7年間これを努めました。ロレックスでの経験は何ものにも代え難く、ジャクリーヌは創造性と製造可能性、美と技術がどのように互いに絡み合うものかを理解することができました。デザイナーは皆、どんなアイデアもオブジェに出来上がって初めて命を得るということを知っています。タイムピースの製造には多くの制約があります。この小さく複雑なオブジェは時を伝えると同時に時に耐えるもの。特に着用による摩耗環境はかなり厳しいものがあります。
2017年のインタビューでジャクリーヌ・ディミエは、1975年1月6日にオーデマ ピゲに来た時、前任者のジャン=フレッド・メイランから2か月で仕事を引き継ぎ、しかも4月にはバーゼル欧州時計宝飾サロンで発表する新モデルを仕上げなければならなかったと語っています。ウォッチとハイジュエリーのプロトタイプは当時、デザイナーのデスクの後ろの棚にしまわれていました。安全対策がとられていないことに驚き、ジャン=フレッド・メイランに訪ねたところ、彼の答はこのようなものでした:「ジュウ渓谷ではそんな心配はいらないんです」。

発展
レディース ロイヤル オークはジャクリーヌ・ディミエが来る前にすでに始まっていました。アーカイブには、署名はありませんがおそらくジャン=フレッド・メイランによると思われるデッサンが残っており、鉛筆で1973年と記してあります。
最初の図面は1974年7月26日付のものでイタリアのマジョーレ湖畔にあるセスト・カレンデのケースメーカー、フェルナンド・フォンタナ社のものです。北イタリアの工房ブレラやフマガリなどは長年ラグジュアリーウォッチの外装部品を、オーデマ ピゲを始めとするスイス時計ブランドに納めていました。ブランドのイタリア市場のエージェントであったカルロ・デ・マルキをよく知っていたフォンタナ社は、スティールの使い方をよく知っていました。ジャック=ルイ・オーデマはスティールで初めてのレディースロイヤル オークを作ろうとしており、ブレスレットはジュネーブのゲイ・フレール社が担当することになっていました。
1975年1月、ジャクリーヌ・ディミエが引き継いだこのプロジェクトはもうかなり進んでいましたが、デザイン的な全体の調和という難しい課題がまだ残っていました。ロイヤル オークのプロポーションの全てを見直すことが必要でした。同じインタビューでジャクリーヌ・ディミエは、このようなモデルをミニチュア化するには構造とプロポーションを全部やり直さなければダメだったと説明しています。このオペレーションの技術的なチャレンジは相当なものでした。「ケース全体を貫通する8個の六角形のビスの存在は大きな制約でした。ベゼルのプロポーションに直接に影響するし、それゆえにウォッチ全体のデザインバランスに影響するからです」
ジャクリーヌ・ディミエはまたこのウォッチが搭載するのは6 ¾リーニュ、つまり径15.4ミリの自動巻きキャリバーだったと言います。これは非常にリスキーなギャンブル。小さなサイズは自動巻きシステムには向いていないからです。選ばれたムーブメントはCalibre 2062でした。ブランクはブランパンを引き継いたヴィルレのレイヴィル工場のもの 。SSIH(スイス時計製造会社)のメンバーであり、オメガの主要サプライヤーです。オーデマ ピゲはLeCoultre & Cieと組んでキャリバーを調整しました。ル・ブラッシュの時計師たちは、いずれも高級な仕上げを施すハイエンドウォッチを手がけていました。ローターは21Kゴールドとするため設計をし直しました。これもオリジナル ロイヤル オークから継承した特徴の一つです。「スティールケースが部分的にゴールドで作られた機械的な宝物を守る」。厚さ4.25ミリのムーブメントを収めるため、ジャクリーヌ・ディミエはケースサイズをこれに合わせ、ケースバックに傾斜をつけスリムに見えるようにしています。
ダイヤルは同じT21 “プチタペストリー” のモチーフと1972年のモデルの「ナイトブルー、クラウド50」カラーを再現。 前のモデルよりずっと小さいため、ジャクリーヌ・ディミエは今回12時位置にホワイトゴールドの“AP”モノグラムロゴを置き、ビジュアルを変えています。このディテールは全体の印象を大きく変えました。これらのキーポイントがモデル8638のバリエーション、モデル5402の最新世代に次々と採用され、さらにモデル4100からの未来のロイヤル オークウォッチに引き継がれます。
パリのフレッドで発表
1940年代からオーデマ ピゲはバーゼルフェアで新製品を発表しています。毎年、スイスと欧州の時計ブランドが多数集まる10日間のバーゼルフェアは業界最大の行事で、世界中からディストリビューターが集まり、新製品の発注を行います。1976年のバーゼルフェアは4月26日から5月3日まで開催され、ロイヤル オーク II はオーデマ ピゲのブースで中心的な役割を果たしました。この特別なウォッチに対して、オーデマ ピゲはそれまでのルールを適用しなかったのです。00から09までの通し番号がつけられた最初の10本は、その3週間前、パリのロワヤル通りの宝飾店フレッドで発表、展示されていました。
ロイヤル オークモデル8638はたちまち人気を呼び、製造アトリエは大忙しとなりました。1976年には428本を販売、翌年には765本がル・ブラッシュから出荷されました。1978年には1000本近くとなり、1979年にはこれを超えます。レディースロイヤル オークが非常に成功したため、オーデマ ピゲの他のレディースウォッチも注目されるようになりました。1976年までにレディースウォッチの製造数は55%増大し、トータル製造数の1/4を占めるまでとなり、その翌年には1/3を超えました。
スティールからゴールドへ
メンズもレディースも最初のロイヤル オークウォッチはすべてスティールでした。これは大胆なコンセプトであり、この印象が強く残りました。このウォッチがしっかりとその足跡を記し、オートオルロジュリーの歴史の新たなページをつづることとなりました。しかし貴金属のバージョンが欲しいという市場の声にすぐには応えなかったのです。
1977年に初めてのゴールド製のロイヤル オークモデルが現れました。オリジナルのコンセプトを捨ててしまうことは、ロイヤル オークのパワーを失うことになると危惧する人々もいました。しかし時がたつにつれて、必ずしもそうではないこともわかってきました。イエローゴールドの8638BA のバリエーションは1977年以降順調に推移し、年間112本からその後は平均250本を維持し続けました。スティールとイエローゴールドを組み合わせたバイカラーバージョン8638SA は最も人気で、発売年には283本、その翌年と翌々年には倍増しました。
1972年の冒険的に登場したロイヤル オークは、オーデマ ピゲの歴史の中で初めて名前のついたシリーズとなります。1976年にモデル8638を加えたことで自らの型をも破ってみせ、1977年には新素材とサイズを加えることにより、名実ともにコレクションの名に値する存在となりました。
編集チーム:オーデマ ピゲ ヘリテージ チーム
初版:2022年1月24日





























































