
1875年以前
1875年 - ル・ブラッシュ
エゾマツの広大な森に抱かれた、中標高地に位置する小さな谷を思い描いてみてください。「ジュウ渓谷」という名前は、「森の谷」を意味します。フランスのすぐ隣に広がるスイス・ジュラ山脈の標高1000メートルの高地には、魚が豊富な湖があり、いくつもの村が点在しています。毎年冬になると、峠は数ヶ月間雪で閉ざされてしまいます。
周辺の村々と同様に、ル・ブラッシュの多くの家や農場には屋根裏部屋を利用した小さな工房があり、時計職人の工具が立てるリズミカルな音が響いています。バネを作る者もいれば、歯車、鐘、チャイミングウォッチのハンマーやゴングを作ったり、小さな石を研磨する者もいます。「エタブリスール」と呼ばれる時計職人たちが、近隣の住民や親戚、友人たちの作業を取りまとめます。部品を入手し、装飾を施し、調整し、組み立てて、複雑機構を備えた時計を作り上げます。これが「エタブリサージュ」と呼ばれるシステムです。
その中で、ジュール=ルイ・オーデマとエドワール=オーギュスト・ピゲという二人の若い時計職人が、オーデマ ピゲの初めての工房を創業しようとしています。彼らのいずれも、自分
たちが設立する会社に驚くべき運命が待ち受けているとは想像もしていませんでした。ただ一つ確かだったことは、この小さな村が複雑な時計を作り出す世界的な中心地の一つであるということです。この驚くべき運命をどのように説明すればよいでしょうか?
渓谷で生き残る
ジュウ渓谷は四方を峠に閉ざされています。そのため、この町は 「コンブ (峡谷)」と呼ばれ、住民は 「コンビエ(峡谷の住人) 」と呼ばれています。温暖化が進む前の平均気温は、一年の半分が零度以下でした。この地域の初期の住民が、静けさと安らぎを求める修道士であったのは、孤立した環境と過酷な気候が理由だったのかもしれません。これは、農業の限られた生産量を補い、長い冬を過ごすために畜産業と並行して多くの活動が発展したことを説明しています。
住民たちは、手に入るすべての資源を活用しました。工具を作るための木材やガラスを作るための砂、食物を保存するための湖の氷、チーズを作るためのミルク、工具を作るためのささやかな鉄鉱床…そしてもちろん、工芸品やガラス細工、チーズ箱、さらには時計を作るための時間もです。
15世紀以降、小さな鉄鉱山が溶鉱炉を支え、近隣の森で炭を作る炭焼き職人によって溶鉱炉の燃料が供給されていました。鉄はその後、水力を利用した工房で鍛造されるようになりました。こうして1555年、ル・ブラッシュ村が誕生しました。この名前は、小規模な製材所や鍛冶場に水を供給していた水路に由来しています。
そして、鉄の加工が時計作りの基盤を築くこととなりました。なぜなら、最初の時計は鉄で作られていたからです。
初期の時計職人たち
1740年、19歳の鍛冶屋の息子、サミュエル=オリヴィエ・メイランは、故郷の谷を離れ、レマン湖沿いの小さな町ロルに向かいました。彼の夢は?時計職人になることでした。当時、時計作りは職人組合によって統制されており、時計職人として独立するためには、8年間の見習い期間を修了することが義務付けられていました。
しかし、2年後、サミュエル=オリヴィエ・メイランは資金不足に陥り、ジュウ渓谷に戻ります。ロールの職人組合の規則に反して、彼はダヴィッドとピエール・ゴレイ兄弟を含む何人かの弟子に自分の知識を伝え始めました。ジュウ渓谷の孤立した場所と過酷な生活環境には、時計製作に関する厳しすぎる規則は適用できませんでした。それでも若い職人たちは諦めず、1749年にはベルンの領主から免除を得ることに成功しました。彼らは1756年に独自の株式会社を設立しましたが、この制度は20年後に廃止され、自由な精神を基盤とするエタブリサージュ制度が生まれました。
渓谷では社会的な繋がりが深いため、時計作りは家族の中で広まっていきました。ピゲ家とオーデマ家は、非常に早い段階でこの動きに参加し始めました。
パイオニアのピゲ家
ジュウ渓谷におけるピゲ家の起源を調べることは、この地の開拓の歴史を辿ることに他なりません。家畜を夏に放牧するために長年ジュウ渓谷を訪れていたと考えられるピゲ家は、1264年頃、他の開拓者たちと共にこの地に定住することを決意し、厳しい冬に立ち向かう覚悟を決めたと言われています。彼らは少しずつ森林を切り開き、家を建て、集落や村の設立に携わっていきました。現在でも、「ピゲ - ドゥシュ」や「ラ・ピゲット」など、ピゲ家の名前が付けられた地名がいくつか残っています。
数世代を経て、ピゲ家は時計製作において再び先駆的な存在となりました。ダニエル・ピゲ(1733-1813)は、1749年にダヴィッド・ゴレイのもとで修行を始めました。ゴレイは、渓谷で最初の時計職人であるサミュエル=オリヴィエ・メイランから技術を学びました。1753年、ダヴィッド・ゴレイの弟は、ピゲ家の異なる家系出身のアブラハム=アイザック・ピゲ(1738-1826)に技術を教え始めました。当時は家も小さく、子どもの多い家族が一般的でした。アブラハム=アイザックが修業を
始めたとき、弟のジョセフ(1748-1825)はまだ5歳でした。
この小さな少年が、15歳の兄が話す時計のムーブメントの心臓部や歯車の繊細さ、工房の魅力に夢中になっている様子を思い描いてみてください。ジョセフは自分の天職を見つけたのです。1769年、修業時代に製作した傑作が評価され、時計職人組合への加入が認められました。その小さな銀時計は、同じく時計職人であった彼の息子に受け継がれ、ひ孫のエドワール=オーギュスト・ピゲ(1875年にオーデマ ピゲを共同設立)へと受け継がれました。
現在もなお、ジョセフの小さな銀時計はその歴史を刻み続けています。その時計は、現在オーデマ ピゲの4代目であり、副会長でもあるオリヴィエ・オーデマが所有し、ル・ブラッシュにあるミュゼ アトリエ オーデマ ピゲに展示されています。
逆境に立ち向かうオーデマ家
16世紀半ば、ヨーロッパでは宗教戦争が激化していました。権力を握っていたカトリック教徒は、キリスト教の制度改革を試みる改革派を抑制しようとしました。1558年、フランス人のアンドレ・オーデマ(Hodemartと表記)は迫害から逃れるためジュネーブに避難しました。1580年頃、ジュウ渓谷に最初に定住したオーデマ家の人物は息子のヤコブでした。
一家はひっそりとジュネーブに根を下ろしました。1635年、一家はデリエール・レ・グランド・ロッシュと呼ばれる村落に小さな農場を建てました。渓谷のはずれにあるこの地域は、カトリックのブルゴーニュとは目と鼻の先であり、強盗や木材の盗難、放火が頻発する地域でした。
木材や貴石の加工、そして家畜の飼育が、彼らの簡素でありながら時に過酷な生活を支えていました。1791年から1792年の冬は、悲劇的でありながらも新たな基盤を作るきっかけとなる重要な出来事によって特徴付けられました。「ラ・ザンヌ 」と呼ばれていたスザンヌ・オーデマ(旧姓ピゲ)は、数週間のうちに3人の子供と夫を失った。全員が伝染病の犠牲者だが、地元の医師がいないため、その伝染病の性質は不明だ。彼女は、5歳から12歳までの3人の孤児を抱え、凍えるような寒さの中で孤立無援となった。彼女は宝石職人であり、また薬草学者、治療師、さらには密輸業者だったとも言われています。一説によると、彼女はベッドの下に財宝を隠し、銃を枕元に置いて眠っていたと言われています。近隣の人々や両親に支えられ、彼女は三人の若い子供たちに時計職人としての技術を習得させることができました。こうして、彼女は知らず知らずのうちに真の王朝を築き上げたのです。なぜなら、その直系の後継者が後にオーデマ ピゲ社を創業することになるからです。
ルイ=ベンジャミンは当時9歳でした。彼こそがオーデマ家を最初に時計製作の歴史に導いた人物です。

ルイ=ベンジャミン・オーデマ
スザンヌ・オーデマが息子のルイ=ベンジャミンを弟子入りさせた時計師は誰でしょうか?それは誰にもわかりません。1749年に渓谷で最初の時計職人の一人であったダニエル・ピゲの叔父(第4章参照)かもしれません。または、10歳年上で、後に名高いピゲ&メイランの共同経営者となるフィリップ=サミュエル・メイランでしょうか。確かなことは、フィリップ=サミュエルとルイ=ベンジャミンの友情がこの歴史おいて重要な役割を果たしたということです。
1802年、オーデマ家とメイラン家は、ル・ブラッシュのル・クレ・メイランという地に隣り合って暮らしていました。20歳になったルイ=ベンジャミンは、フィリップ=サミュエル・メイランの義理の妹ジュリー・ルクルトと結婚しました。若い夫婦は、フィリップ=サミュエルに自分たちの最初の子供の名付け親になってほしいと頼みました。友情、家族の絆、そして時計作りはすべて密接に結びついています。1811年、フィリップ=サミュエルがジュネーブでオートマトン・リング(第4章参照)の発明者であるダニエル=アイザック・ピゲと会社を設立するために渓谷を去ったとき、ルイ=ベンジャミンが彼の工房を全て引き継ぎました。この日が、後のルイ・オーデマ & フィスというブランドの礎となります。
そして、この瞬間から、ルイ=ベンジャミン・オーデマは昔からの夢を実現するために全力を尽くします。それは、ジュウ渓谷で機械とケースを含む、完全な時計を製造するということでした。そして何よりも大切なことは、顧客にブランドの名を知ってもらうために時計に署名を入れることです。そこで彼は、8人の息子たちをいくつかの有名な時計工房に送り込み、時計の各パーツの製作と流通の仕組みを習得させました。1833年に彼が亡くなった時には、その夢はまだ遥か先のことのように思われましたが、多くの困難を乗り越えながら徐々に形を成し始めました。
エタブリサージュ
一部の資料によると、1833年当時、ルイ・オーデマ&フィス社は180人もの職人を雇っていたという情報もあります。しかし、彼の工房はわずかな人数しか収容できませんでした。実際、職人の多くが、「エタブリサージュ 」というシステムに従い、自宅の小さな工房で仕事をしていました。ジュウ渓谷では、1776年に職人組合が廃止されて以来、農場に小さな工房が併設されることが多く、住民はそこで歯車やブリッジ、鐘、文字盤、バネなどの時計の部品を製作していました。特に優れた技術を有する人々にとっては、この活動が主要な収入源となっていました。高い専門性と創造性を持つ職人たちのネットワークにより、この地域は19世紀以降、複雑時計の中心地となりました。
このシステムにおいて、「エタブリスール」はいわばオーケストラの指揮者のような役割を果たしていました。「ロパスール」と呼ばれる時計職人は、すべての職人の仕事を調整し、部品を注文して集め、それらを調整(「ロパセ」)して時計のメカニズムを作り上げていました。ル・ブラッシュという小さな村には、数多くの優れた作り手が住んでいましたが、彼らが自身の作品に署名することは珍しく、その存在はあまり知られていませんでした。例えば、パテック フィリップの超複雑時計「グレーヴス」の共同制作者ヴィクトラン・ピゲ(1874-1949)、「ラ・メルヴェイユーズ」の共同制作者シャルル=アミ・ルクルト(1843-1921)、「ルロワ01」の共同制作者シャルル=エミール・ピゲ(1864-1947)、オートマトン製作の天才であるロシャ兄弟、イクエーション オブ タイム機構の専門家であるレオン=アーネスト・オベール(1845-1920)、およびグランドソヌリやいくつかの天才的な発明で知られるルイ=エリゼ・ピゲ(1836-1924)などが挙げられるでしょう。
1830年から1870年にかけて、ル・ブラッシュの村で最も影響力のある工房はルイ・オーデマ&フィス社でした。週末になると、ル・クレ・メイランの入り口の前には職人たちの行列ができたそうです。皆が自分の番を待って製品を納品しなければならず、作業場への入り口が子供部屋を通っていたため、夜になると職人たちは子供たちを起こさないように声を抑えなければならないことがよくありました。
ブレゲの作品に触発されたルイ・オーデマ&フィス社は、チャイミング、カレンダー、デッドビートセコンド、フドロワイヤント、温度計...といった複数の複雑機構を備えた時計の製造に秀でた才能を発揮し、1840年代の終わりには創業者の夢は現実のものとなりました。一部の作品は製造者の手で仕上げられ、署名が施されていました。万国博覧会は、ルイ・オーデマという新しいブランドに一層の注目を集めることとなりました。
エドワール=オーギュスト・ピゲ
1853年、エドワール=オーギュスト・ピゲの両親は、なぜエドワールの名前に「Edouard」という英語式の表記を選んだのでしょうか?その理由は明らかではありませんが、オーデマ ピゲの共同創業者となるエドワ―ルが生まれる約1ヶ月半前に亡くなった、偉大なイギリスの時計職人エドワード・ジョン・デント(1790-1853)への敬意を表したものだと考えられます。エドワード・デントは、ビッグ・ベンの愛称で知られるウェストミンスター時計を製作した人物です。彼は定期的にジュウ渓谷を訪れ、複雑機構を購入して仕上げ、ルイ・オーデマ&フィス社と共に仕事をしていました。イギリスの時計職人としては珍しく、彼は時折「Dent à Le Brassus」と署名することで、自身が使用しているムーブメントの出所を明らかにしていました。
エドワール=オーギュスト・ピゲはル・クレ・メイランで時計職人に囲まれて育ちました。曽祖父のジョセフ、祖父のダヴィッド=ジョセフ、父のジョージ・ウジェーヌは皆、時計職人でした。彼は、才能ある時計職人であり、またジュウ渓谷裁判所の裁判長であり、村長でもあるシャルル・キャプトの下で修業を積みました。エドワール・オーギュストは、そこで時計職人としての技術を学ぶと同時に、社会的な役割についても学びました。彼はどちらの仕事にも情熱を傾け、ジュウ渓谷では一般的な慣習であったように、生涯を通じて両方の仕事を続けました。地方議会議員として、またル・ブラッシュの合唱団やその他多くの団体のメンバーとして、彼は一家の地域社会への関与を継承し、深めていきました。
その一方で、作業台でも活動していました。他のサプライヤーのため、そして自分自身の作品のために作業に取り組んでいました。1872年から1876年まで、ルイ・オーデマ&フィス社の記録に彼の名前が記録されています。1881年には、ラ・ショー・ド・フォンで開催された国立時計展で個人として銅メダルを獲得しました。その傍らで、彼は幼馴染のジュール=ルイ・オーデマと共に仕事を進めていました。
ジュール=ルイ・オーデマ
ジュール=ルイ・オーデマは1851年3月末に生まれました。ロンドン万国博覧会が開催される1ヶ月前のことで、従兄弟であり隣人でもあったアドルフ・オーデマは、長さわずか5mmの機械式ピストルを発表しセンセーションを巻き起こすことになります。
ジュール=ルイは幼少期を家族の農場で過ごし、学校に通いながら馬と時計作りにも親しみ、充実した子供時代を送りました。夜になると、彼の父親フランソワ・ルイ(「ロワイヤル」という愛称で親しまれていました)は時折、曾祖母「ラ・ザンヌ」の話をしてくれました。彼は、父親であるエリゼが、1811年から始まった兄ルイ=ベンジャミン・オーデマの工房の最初の数年間にどのような役割を果たしていたのかについて語ります。彼は会社のために日々製作している、複雑なメカニズムについて説明します。最も美しい作品を仕上げるのは彼であり、それは彼の時計師としての技術を物語っています。また、食卓ではジュウ渓谷の時計が歩んできた運命についても語られます。そして、ニューヨークや香港、サンクトペテルブルク、フィラデルフィア、そしてロシアのアレクシス・ロマノフ大公、ヴィクトリア女王、その他の世界的リーダーといった一流の顧客について話します。
父の影響を受け、ジュール=ルイは時計職人の道を歩み始めました。1874年5月、23歳の彼はシドニー・ルノーと結婚し、彼女の勧めで山の向こうのギメル村に移住しました。彼の義父は、彼のために時計店と工房を整備してくれたそうです。しかし、その1年後、若い時計職人はル・ブラッシュに戻ることを決めました。ホームシックでしょうか?そうかもしれません..しかし、何よりも彼は、世界で最も才能にあふれ、創造的な時計職人のネットワークがル・ブラッシュに存在することを知っていたのです。そして彼には、自分のブランドを立ち上げるという夢がありました。
友情
生まれる前から、ジュール=ルイ・オーデマとエドワール=オーギュスト・ピゲには多くの共通点がありました。両家は少なくとも150年以上にわたり強い絆で結ばれていました。彼らには共通の先祖が何人もいました。その一人が1735年生まれの木工職人デヴィッド・ピゲ(「ル・グヴェルヌール」として知られる)で、彼はルイ=ベンジャミン・オーデマの先祖でもあります。彼らの父親、祖父、叔父、いとこ、大叔父たちは皆、素晴らしい時計のムーブメントを製造するために、何らかの形で協力し合ってきました。
オーデマ ピゲの共同創業者2人は、1851年と1853年という2年違いでル・ブラッシュの村で誕生しました。村の学校の校庭で雪合戦をしたり、真夜中に凍った湖で遊ぶやんちゃな姿を思い描くと微笑ましくなります。残念なことに、2人の友情に関する記録はアーカイブにほとんど残されておらず、創業者たちは手紙や回想録も書き残していませんでした。
二人の絆を知るためには、出生記録や死亡記録を調べる必要があります。1891年5月10日、ジュール=ルイの長男、ロベール=アンリ・オーデマは、スイスの小さな町ヴィンタートゥールでビジネスの修業を始めた矢先に、16歳の若さで急逝しました。悲しみに暮れる親友でありビジネスパートナーを支えるために、死亡届の提出に役所へ赴いたのはエドワール=オーギュスト・ピゲでした。
そして、エドワール=オーギュストと妻のエミリア・アンナは、その3週間後に生まれた第2子をロベール=アンリと名付けました。

1875年 ひっそりとした誕生
1903年頃、販売店向けの販売促進用パンフレットを作成していた際、オーデマ ピゲの二人の創業者は、会社の設立日を記載することが重要だと考えました。1875年という年を選んだ際、彼らは少し迷ったかもしれません。というのも、彼らの会社の立ち上げは流れるように自然で、ダイナミックなプロセスだったからです。
1870年代のスイスでは、自由主義の影響で、企業は商業登記簿に登録する義務はなく、実際、商業登記簿が存在しない地域もありました。商標保護と特許制度はまだ構想段階に過ぎないものでした。多くの職人は自宅に作業場を持ち、互いに助け合いながら作業していました。このような状況では、会社の創業時期を特定するのはほぼ不可能なことです。少し調べると、過去の共同作業や、少年時代や修行時代に父親や叔父の作業台で製作した、あるいはそれ以前に販売された機構が頭に浮かんでくるからです。経済学の研究者によれば、19世紀には事業が順調に進んだ数年後に、事業契約が結ばれることがよくあったそうです。
オーデマ ピゲの場合、最初の提携契約は1881年に遡り、それ以前の記録は残っていません。では、1875年に何が起こったのでしょうか?この年、ジュール=ルイ・オーデマとその妻シドニー(旧姓ルノー)が、赤ん坊を連れてジュウ渓谷に戻ってきました。彼らが家族の農場に居を構えた可能性も否定できませんが、その近くにある新しい建物、現在のミュゼ アトリエ オーデマ ピゲがあるルート・ド・フランス通り18番地に住んでいた可能性がより高いと言われています。ジュール=ルイは、光が最もよく当たる屋根裏に小さな工房を構えました。少なくとも、1875年12月23日にジュウ渓谷新聞に掲載された広告には、「11リーニュから、さまざまな種類の時計を取り揃えた時計店。ジュール=オーデマ・ルノー、ヴェール・シェ・メイラン」と記されています。
この文書は、現在までに確認されている、会社設立の年に関する唯一の記録です。続きは「オーデマ ピゲの軌跡」と題された記事にある。
4つの家族
ジュウ渓谷における時計製作の発展、そしてそれに伴うオーデマ ピゲの発展は、まず家族の物語です。オーデマ ピゲは、現在も創業者一族が経営を担っており、昔からの変わらぬ姿勢を保っています。ジュール=ルイ以来4代目となるジャスミン・オーデマは、オーデマ ピゲ財団を統括しています。エドワール=オーギュスト・ピゲ以来4代目となるオリヴィエ・オーデマは、取締役会の副会長を務めています。彼の姓からは分かりませんが、彼は取締役会でピゲ家を代表しています。彼の母であるミシェル・ピゲがフィリップ・オーデマ ピゲと結婚したためです。これは「ラ・ザンヌ」の物語(第5章)を思い起こさせます。18世紀にピゲ家の一人がオーデマ家の者と結婚し、その時点で姓はすでに「オーデマ ピゲ」となりました。オリヴィエ・オーデマもまた、ルイ=ベンジャミン・オーデマの直系の子孫である。
20世紀には、ジュウ渓谷の2つの時計製作一族がオーデマ ピゲに加わりました。1940年代の厳しい時期を乗り切るため、ル・ブラッシュの時計製造ブランドは、後にジャガー・ルクルトとなるルクルト社のルクルト家の一員を取締役に迎えました。「ラ・グランド・メゾン」と呼ばれるこの工場は、隣村のル・サンティエに位置し、1世紀以上にわたりオーデマ ピゲとのビジネス、友情、産業面での深い繋がりを築いてきました。さらに、エドワール=オーギュスト・ピゲの曽祖父であるジョゼフ・ピゲは、1833年にルクルトを創業したアントワーヌ・ルクルトの大叔父でもありました。
1945年から1986年にかけて、ジョルジュ・ゴレイはオーデマ ピゲ ブランドに大きな変革をもたらし、小ロットシリーズ、ロイヤル オーク、超薄型自動巻きパーペチュアルカレンダーを取り入れました。彼は創業者一族以外からの初の経営者として、1960年代に会社の資本に参加しました。
現在も、創業者一族に加えて、ルクルト家とゴレイ家の子孫がオーデマ ピゲの役員を務めています。ジュウ渓谷に深く根差したこの4つの家族が、数世代にわたる結婚や提携、創業を通じて結びつき、オーデマ ピゲの現在と未来を形作り続けています。そして、時計文化に深く根ざした地域と歴史におけるオーデマ ピゲの揺るぎない地位を支えているのです。
2025年2月、オーデマ ピゲ ヘリテージチーム







































































