
オーデマ ピゲの軌跡
起源
オーデマ ピゲは1875年、ジュウ渓谷のル・ブラッシュという小さな村で誕生しました。スイスのジュラ山脈の中腹に位置するこの地域には、すでに才能豊かな時計師たちが数多く集まっていて、至るところで時計作りが盛んに行われていました。職人たちは、世界で最も複雑な機械式ムーブメントを作り出すため、仕事や家族、友人関係が入り組んだネットワークを築き上げました。
ジュウ渓谷の驚異的な時計産業の運命、ル・ブラッシュに住むさまざまなファミリーのネットワーク、2人の共同創業者ジュール=ルイ・オーデマ(1851-1918)とエドワール=オーギュスト・ピゲ(1853-1919)の若き日の物語、そしてオーデマ ピゲ初の工房が誕生するまでの詳しい経緯については、「1875年以前」の記事をご覧ください。ここでは、「1875年以前」の記事のその後、つまり1875年からの物語をご紹介しましょう。
1875年 初めての試練
1875年秋、24歳になったジュール=ルイ・オーデマと妻のシドニー、そして赤ん坊は、ジュラ山脈の麓にあるジメル村で1年余りを過ごした後、ジュウ渓谷に戻りました。そして、彼は「シェ・レ・メイラン」に居を構えます。この家はオーデマ家の農場から目と鼻の先にある、現在のル・ブラッシュ、ルート・ド・フランス通り18番地の家であったと思われます。若い時計職人は屋根裏に小さな工房を設け、作業台を窓際に配しました。光は時計職人の精緻な作業に欠かせない要素だからです。
150年の時を経て、この家は今もなお存在しています。ジュール=ルイの工房があった場所で、時計修復職人たちが伝統的な技術を守り続けています。この建物以外にも、多くの施設でオーデマ ピゲは時計職人たちを迎え入れており、その数はジュウ渓谷で1800人以上、世界中で約3000人におよびます。しかし1875年には、ジュール=ルイはまだこのような輝かしい未来を想像もしていませんでした。彼が工房を創設した年、時計業界は10年にわたる危機の始まりを迎えました。
この不況は、長い繁栄の時期の後に訪れただけに、なおさら厳しいものでした。数ヶ月の間に、ジュウ渓谷の時計職人たちの注文帳は真っ白になりました。不況は、アメリカの時計業界からの競争が激しくなったことによりさらに悪化しました。1876年にフィラデルフィアで開催された万国博覧会では、アメリカの先進的な技術が披露されました。不況の中、多くの時計職人が仕事を求めてジュネーブやヌシャテルの山々へ移り住みました。中には職業を変える者もいました。
オーデマ ピゲの最初の工房は、このような危機的な状況の中で設立されました。彼はどのように会社を成長させたのでしょうか?どのように生き延びたのでしょうか?1881年以前の記録がないため、その謎は依然として解明されていません。しかし、1875年12月から1876年12月にかけて、ジュール=ルイ・オーデマは地元の新聞に3つの短い広告を掲載し、「あらゆる種類の時計」と「高品質な一般的な時計」のラインナップを宣伝したことが分かっています。1879年、ティソ社のアーカイブにはジュール=ルイ・オーデマとの取引に関する記録が保存されています。そして1881年12月17日、エドワール=オーギュスト・ピゲと提携契約を結びます。この文書および1882年からの製作記録から、同社が何年も前から信頼できる従業員を雇い、ロンドンとパリに販売所を構えていたことが分かります。
さらに重要なことは、1905年頃に共同創業者たちがオーデマ ピゲ創業の年を初めて小売業者向けのカタログに記載することを決め、その年に1875年を選んだことです。また、ジュール=ルイ・オーデマの追悼記事から、1875年にはすでに複雑機構を搭載した時計を製作していたことが確認できています。
1881年 契約書の締結
1881年5月5日、ジュウ渓谷を代表する時計職人たちが一堂に会しました。事態は深刻です。彼らが署名した書簡には、次のように記されています。「我々ジュウ渓谷の時計製作者は、地域の再生に主要産業を再び活性化させることが重要だと考えており、故郷を離れた多くの職人たちを呼び戻すことで、彼らが外に持ち出さざるを得なかった貴重な知識を国内に留め、活用できるのではないかと思っています」地域経済の回復を目指して、エドワール=オーギュスト・ピゲ、ジュール=ルイ・オーデマ、そして彼らの仲間たちは、たとえ自由が制約されることになったとしても、最低販売価格を守るよう地域の時計職人たちに呼びかけました。
これをきっかけとして、2人の共同創業者は最初の提携契約を結ぶことを思いついたのでしょうか?そう考えるのは確かに自然なことです。1881年12月17日、契約書が締結されました。10年間の期限が設けられたこの契約は、1882年1月1日から発効となりました。ジュール=ルイ・オーデマは、おそらく現在も製作されていると思われる18個の機械式ムーブメントを資本として提供しました。また、彼は父親と兄アルベール、そしてこれまで雇っていた他の職人たちに優先的に仕事を与える権利を留保しました。一方、エドワール=オーギュスト・ピゲは、当時としてはかなり高額である1万スイスフランを提供しました。この金額は、当時の相場で、2つの住居、工房、庭、そして井戸を備えた家の価格に相当するものでした。これにより、オーデマ ピゲの工房を拡大し、設備を充実させ、ゴールド製ケースに投資することができ、さらには広告活動を始めることができました。実際に出された最初の広告は1882年2月です。
2人とも才能ある時計職人でした。彼らは役割を分担することに決めました。エドワール=オーギュスト・ピゲが会社の商業活動と財務面を担当することになりました。人々をまとめる力と広いネットワークを持つ彼は、ジュウ渓谷の先駆者的一家の一員であり、ほぼ貴族的な存在であると言えるでしょう。彼は公の場で活躍し、非常に優れたコミュニケーション能力を有していました。
ジュール=ルイ・オーデマは、1875年に設立した工房の運営を引き続き担当することになりました。1882年12月6日、スイス連邦知的所有権庁が設立されたばかりのこの時期に、同社はブランドの刻印と社名を次のように登録しました。「オーデマ、ピゲ社、製作業者、ル・ブラッシュ。自社製の時計ムーブメントとケース」つまり、自社製時計の製作はブランドの創業当初から重要な位置を占めていたのです。
どんな逆境にも打ち勝つ伝統
1870年代、スイス時計業界という小さな世界で、ある疑問が人々の関心を集め、議論の中心となっていました。産業化を進めるべきか?特定の専門分野を失うリスクを冒すことになろうとも、根本的な変革を行わずに、アメリカとの競争に勝ち残ることができるのか?ルクルト(ジャガー・ルクルトの前身)、ゼニス、ロンジンなど、多くの企業が工業化の道を選びました。一方、オーデマ ピゲは逆の道を進む決断をしました。
オーデマ ピゲの最初のエタブリサージュ記録簿には、約10年分の製作履歴が記されています。その記録からは興味深い事実が浮かび上がります。各時計には、ケースとムーブメントに同じ番号が刻印されていますが、モデル番号やキャリバー番号は記されていません。ムーブメントにはサイズと機能が記されています。分かりやすく言えば、それぞれの時計がユニークピースであり、他の時計とは異なるムーブメントを搭載しているということです。蒸気機関の時代において、このような手法は一種のマニフェストです!
オーデマ ピゲの共同創業者たちは、伝統的な職人技、優れた製作技術、そして主に家庭内で行われることの多かったエタブリサージュのシステムに基づいた、非常に小規模で専門的な作業組織を力強く信念を持って守り続けました。彼らは、同じ業界の仲間、先人、親戚、ル・ブラッシュの隣人、そして師匠たちと同じように活動する道を選びました。なぜなら、彼らは創業と共に、極めて高い価値を生み出す一方で量産には適さない、複雑機構を備えた時計の製作に取り組み始めたからです。1951年まで、オーデマ ピゲは一点物の時計しか製作していませんでした。
さらに複雑に!
最初のエタブリサージュ記録簿に戻りましょう。最初のページには13本の時計が紹介されています。すべての時計は少なくとも1つの伝統的な複雑機構が搭載され、中には複数の複雑機構を搭載した時計もあります。リピーターが9つ、クロノグラフが7つ、カレンダーが3つあります。素晴らしい幕開けです!10年にわたり、この記録簿に記載された1625本の時計のうち、75%が一つまたは複数のコンプリケーションを搭載しています。52%がリピーター、38%がクロノグラフ、8%がカレンダーを搭載しています。20%が複数の複雑機構が搭載された時計でした。
オーデマ ピゲの歴史において、最初の数十年間は、複雑機構を搭載した時計が非常に重要な位置を占めています。この専門性は偶然の産物ではなく、ジュウ渓谷の複雑機構製作における長い歴史と技術の蓄積により築かれたものなのです。1850年代以来、ル・ブラッシュの小さな時計職人コミュニティは、世界で最も複雑なキャリバーの大半を開発・製作してきました。アミ=ルクルト・ピゲの「ラ・メルヴェイユーズ」(1878年)、「ルロワ01」(1900年)、パテック フィリップの「ヘンリーグレイブス」(1927年)などがその代表例です。ジュネーブ、パリ、ブザンソン、ロンドンで署名されたものであろうと、そのムーブメントはジュウ渓谷で生まれたものなのです。
オーデマ ピゲは、この超複雑化の探求において中心的な役割を担いました。1899年4月、工房はいとこであり隣人でもあったルイ=エリゼ・ピゲの工房から特別なエボーシュが届きました。19の複雑機構を構成する1000を超える部品の 「ロパサージュ」には数カ月を要します。ケースに収められた時計はドイツに送られ、グラスヒュッテのユニオン・デュルシュタイン社により仕上げが施され、「ユニヴェルセル ウォッチ」の名前で販売されました。「ユニヴェルセル」という愛称が付けられたこの時計は、4年の修復期間を経て、2016年にオーデマ ピゲ ヘリテージにより買い戻されました。その時計はル・ブラシュにあるミュゼ アトリエ オーデマ ピゲに展示されており、2023年にジュネーブ・ウォッチメイキング・グランプリを受賞した「CODE 11.59 バイ オーデマ ピゲ ウルトラ コンプリケーション ユニヴェルセル(RD#4)」の創作のインスピレーションとなりました。
オーデマ ピゲは、複雑機構を搭載した時計の製作を決して止めることはありませんでした。
すべてのオーデマたち!
19世紀、未だ時計は一般的には珍しいものでした。複雑機構を備えた時計はなおさらです。それらは、主に大都市に住む愛好家向けに製作されていました。しかし、山間の村に位置する小さな工房の創業者にとって、貴族や産業界の大物とのつながりを持つことは決して容易なことではありません。オーデマ ピゲにとって、認知度を高めることはさらに困難なことでした。1880年から90年にかけて、ル・ブラッシュでは4つの時計ブランドがオーデマ姓を名乗っていたのです!
創業者たちは、まず他の時計職人に自分たちの時計を販売し、その流通ネットワークを活用することで、あらゆる可能性を模索しました。その中には、ジュネーブのヴァシュロン・コンスタンタンやパテック・フィリップ、ロンドンのデント、ニューヨークのティファニー、パリのカルティエ、そして1811年からル・ブラッシュに拠点を置き、競合相手であると同時に顧客であり、いとこでもあるルイ・オーデマなどが含まれます。
同時に、オーデマ ピゲは、ルツェルンのE.ギュブラン、ニューヨークのウィットナー、サンフランシスコのシュリーブ&カンパニーなど、主要都市や観光地に店舗を構える小売業者との関係を築いていきました。これらの仲介業者は時計の流通を促進しますが、しばしば自社の署名を時計に刻印し、その結果、製作者は影の存在となってしまいます。
そこで、オーデマ ピゲは名声を築くために万国博覧会のコンテストに参加し、メダルを獲得し、広告キャンペーンを打ち出し、ジュネーブとロンドンに小さな工房を開き、時計を完成させるとともにネットワークを築きました。やがて、文字盤に“ Audemars Piguet & Cie, Brassus et Genève”というブランド名が刻まれるようになります。時が経つにつれて、オーデマ ピゲは新しいものを求め、多様な文化を有する、洗練された顧客層を魅了するようになりました。
1918-1919年 初の世代交代
19世紀から第一次世界大戦に至るまで、生産は徐々に拡大し、1880年代には一握りの時計職人により年間100本程度製作されるだけだった時計は、1910年代には25人ほどの職人により50万本が製作されるようになりました。 エタブリサージュの時は主に「ロパスール」の時計職人を雇っていました。彼らは時計の部品を自分たちで作るのではなく、ジュウ渓谷に点在する何十もの小さな工房の仕事を調整し、その後仕上げ作業を行います。彼らは時計を調整し、適応させ、動作確認を行い、仕上げ、組み立て、ケースに入れ、最終検査を行います。ロパスールという職業は、時計業界で最も権威のある職業です。
1907年は、現在の本社であるルート・ド・フランス16番地に新社屋が建設された、ブランドの歴史において極めて重要な年でした。オーデマ ピゲ社は組織変更が行われ株式会社になりました。この法的形態により所有者は一定の保護を得られるものの、匿名性は法律上の形式にすぎず、資本は創業家に留まり、そこにジュウ渓谷の時計師家系であるルクルト家やキャプト家が参加しています。
第一次世界大戦はベル・エポックの時代に終止符を打ち、不安定な時代をもたらしました。スイスは中立国ではあるものの、国際貿易は停滞し、徴兵対象となる時計師たちは招集されました。1918年の休戦の一ヶ月前、ジュール=ルイ・オーデマが病気で他界し、その一年後にエドワール=オーギュスト・ピゲが亡くなりました。
その後、家族の第二世代目の人々が経営を引き継ぎます。2人のポールの時代です。ポール=ルイ・オーデマ(1881-1969)は才能ある時計職人であり、1901年から工房で働いていました。1918年に父親の後を継ぎ、1948年まで技術部門の責任者および理事会長として務めました。ポール=エドワード・ピゲ(1890-1979)は、ジュウ渓谷をこよなく愛し、多くの人々に愛された人物で、1910年に見習い時計師として工房で働き始めました。1917年に取締役に任命され、2年後に父親の後を継いで会社の財務および営業管理を担当するようになりました。89歳で他界するまで、彼は毎日スクーターで工房に通い、68年間もの間、会社のために尽くしました。
父親の後を継いだ2人のポールは、自分たちが乗り越えなければならない困難など想像すらしていませんでした。
危機からさらなる危機へ
戦争の終わりが近づく中で、スイスの時計業界は平和条約の締結により好景気が訪れると見込み、生産を再開しました。ところが、予想に反して、過剰な在庫が市場を悪化させ、価格が下落し、時計業界は深刻な危機に直面しました。「シャブロナージュ」(エボーシュや部品の安価な輸出)に対抗するため、スイスの時計業界は1920年代に厳格な規則を導入しました。スイスの時計業界は、政府の指導のもとでカルテルとして組織されました。
しかし当時、オーデマ ピゲの総生産量はスイス時計産業の1000分の1に過ぎないものでした。高級品市場へのポジショニングが、価格の急落から企業を守る盾となりました。1926年、オーデマ ピゲは初めて1年間に1000個以上の時計を販売しました。そこで働く33人の職人たちにより、オーデマ ピゲはル・ブラッシュで最も大きな時計会社となりました。彼らが予期していなかったことは、このような売れ行きが再び達成されるには26年の歳月が必要だということでした。1930年、オーデマ ピゲは壊滅寸前の大打撃を受けました。
1929年の株式市場の大暴落の影響で、ニューヨークの主要な顧客であるMetric Watchが倒産しました。彼らには、ほぼ一年分の売上に相当する42万5000スイスフランの未払い金が残っていました!ポール=エドワール・ピゲと、ポール=ルイ・オーデマは、資金不足という困難な状況の中で、前例のない世界的金融危機に直面しました。1931年から1935年にかけて、売上は年間50本以下にまで落ち込みました。二人のポールは会社を必死に支え続け、彼らは10人ほどの職人を維持することができました。州からの融資と免税を申請し、オーディゲとアプコという2つの手頃な価格のサブブランドを立ち上げました。ユニバーサル、ロレックス、オメガ、モバードといった、他の時計メーカーとの提携に向けて話し合いを始めました。
1930年から1945年にかけては、企業の歴史の中で最も財政的に困難な時期でした。オーデマ ピゲは15年連続で赤字を出していました。しかし、逆境は職人たちの創造性に拍車をかけ、戦間期には次々と革新が生まれました。時計のスケルトン化することで、時計職人たちは忙しく作業に取り組み、また同時にさまざまな傑作を生み出しました。腕時計に複雑機構を追加することもまた、多くの時間を要する作業です。ジャンピングアワーウォッチや、ハイジュエリーウォッチ、ミニチュアウォッチ、複雑機構ウォッチ、超薄型ウォッチも製作していました。限られた従業員でこれほど多彩な選択肢を提供できることは、実に素晴らしいことです。
腕時計市場の拡大
腕時計が誕生したのは16世紀ですが、1910年代から1920年代にかけてようやく、現代社会の必需品として普及するようになりました。時計業者にとって、腕時計の製作は多くの課題をもたらします。まず、ムーブメントの小型化が必要になります。次に、衝撃への耐久性が重要になります。手首に着ける腕時計は懐中時計よりもはるかに外部の影響を受けやすいためです。最後に、ブレスレットの固定方法です。
オーデマ ピゲは複雑機構を備えた腕時計の普及において先駆的な役割を果たしました。1892年、ルイ・ブラン&フレール(オメガ)と共同で、最初のミニッツリピーター腕時計を製作し、続いてさまざまな小型チャイミングウォッチを製作しました。1920年代には初のカレンダー付き腕時計が登場し、1930年代にはクロノグラフが登場しまた。
このブームは、アールデコの黄金時代と同時期に訪れます。この流れは、現代的な要素と伝統的な技術、シンプルなラインや幾何学的なフォルム、スピードと光、そして職人技の融合を目指すものです。これこそがオーデマ ピゲが行っていることなのです。
ル・ブラッシュの職人たちは、ジュネーブやラ・ショー・ド・フォンのケースメーカーと協力し、クッション型、トノー型、長方形、バゲット型、スクエア形など、新たなフォルムを探求し、取り入れました。オーバーサイズや可動式ラグなど、創造の可能性は限りなく広がります。
限りない小型化への探求
時計製作において、小型化は複雑機構やクロノメーターと同様に高い技術が要求される分野です。ムーブメントの小型化は非常に難しく、最も険しい山の頂に挑戦するようなものです。
19世紀以来、オーデマ ピゲのエタブリサージュ記録簿には極めて小型なムーブメントの製作履歴が残されています。直径18mmのミニッツリピーター キャリバーは1891年に誕生しました。1900年代に入り、時計製作業者たちは「アーキプラ」と呼ばれるムーブメントを開発し始めました。
ルクルトとオーデマ ピゲの競争は、まるで兄弟同士の競争のようです。1907年、ルクルトは厚さ1.38mmのキャリバー17JVEBを発表します。19年後、オーデマ ピゲはキャリバー7SV(1.32 mm)により、髪の毛1本分の厚さでこの記録を塗り替えました。1927年、オーデマ ピゲは世界最小のムーブメント、キャリバー5/7SB(15.9 x 5.8 x 3.3mm)を発表します。その2年後、ルクルトはキャリバー101(14×4.8×3.4mm)を発表しました。これらの小型ムーブメントは、時間の表示機能よりもジュエリーの美しさが強調される、ハイジュエリーウォッチのために製作されたものです。
1921年、オーデマ ピゲは世界最小のチャイミングウォッチを製作しました。直径15.8mm(7リーニュ)のキャリバー7MVは、オンデマンドで時刻を表示し、144種類のメロディーを奏でることができます。ポール=ルイ・オーデマは、時計製作の最も純粋な伝統に則り、メラン・グロジャンという独立時計職人にチャイミング機構の製作を依頼しました。メラン・グロジャンは、この貴重なムーブメントを納品する際、すべてを物語る次のようなメモを添えました。「2ヶ月にわたる苦闘と頭痛、目の疲れを乗り越えて、ようやく完成したダイヤルです。どれほど高額な報酬のためであっても、もう二度と作りません」
ハイジュエリーからシークレットウォッチ、ペンダントウォッチ、ブローチウォッチ、そしてリングウォッチに至るまで、女性用ウォッチにはミニチュア化の熟練技が生かされています。
1945年 新たな息吹
1945年、世界には楽観主義と現代的な風潮が広まりました。戦争の惨禍の後、すべてを一から立て直し、再考し、再び創造しなければなりませんでした。西洋諸国は「栄光の30年」と呼ばれる、30年にわたる高度経済成長の時代に突入しました。スイスの時計業界は急成長し、輸出量は1945年の約1200万本から、1974年には8000万本を超える規模に拡大しました。
オーデマ ピゲにとって、状況は徐々に好転してきました。1945年当時、工房では30人ほどの職人が働き、年間500本以上の時計を生産していましたが、利益が見込めるようになるにはまだ時間が必要でした。2人のポールは、隣接するサンティエ村にあるルクルトのノウハウを活用したいと考えます。この会社は数百人の従業員を擁し、19世紀から続く大量生産の技術を持ち、ジュネーブに拠点を置いた現代的な流通網を構築しています。
1948年は大きな決断の年でした。オーデマ ピゲは初めてバーゼル時計見本市に参加し、コレクションは再編成され、ブランドは現代的に刷新されました。「& Co」の表記は次第にダイヤルや広告から姿を消し、流通網は再編成され、サブブランドのアプコとオーディゲを廃止しました。生産体制が再編され、ルクルトがエボーシュの主要サプライヤーとなりました。このような状況の中で、SAPICの一部のメンバーがオーデマ ピゲの取締役会に加わることになりました。1927年に設立されたこのSAPICグループは、Société Anonyme des Participations Industrielles et Commerciales(産業・商業参加株式会社)の略称で、ルクルト、ジャガー・ルクルトの販売会社、ヴァシュロン・コンスタンタン、ジャガー・エタブリスメントなど、他の時計関連企業にも出資しています。ジュール=セザール・サヴァリ(1899-1966)がオーデマ ピゲの会長に就任します。実務経験豊富で、商才に長け、先見の明があり、時計業界に精通していた彼は、1966年に他界するまでオーデマ ピゲを統率しました。
創業者一族は会社の所有権を引き続き保持していますが、新しいアイデアや経験、リソースの導入により大規模な近代化が進み、急速に成果を上げました。1952年、売上高は100万フランを突破し、1926年以来2回目となる1000本以上の時計を生産しました。3年後、オーデマ ピゲは2000本以上の時計を販売しました。1970年当時、工房では86人の従業員が働き、およそ5500本の時計を生産していました。
「モデル」とおっしゃいましたか?
コレクターの方々ならよく知っていることですが、1951年以降、オーデマ ピゲの時計のムーブメントはケースとは異なる番号が付けられています。一見すると些細なこの違いが、実は大きな変革を物語っています。オーデマ ピゲは初めて、同じ時計を複数製作するという選択をしたのです!それ以降、時計には「モデル」番号、
すなわち「リファレンス」が付けられるようになりました。
この小さな革命は、ブランドが大規模な工業生産を開始することを示唆するものではありません。その変化は極めて緩やかに進みます。1990年代まで、モデルのリファレンスはケースの形状、キャリバー、素材に使用されていましたが、ダイヤルや針は含まれていませんでした。オーデマ ピゲのヘリテージコレクションに含まれる同じモデル番号のいくつかの時計を見比べると、小さなバリエーションが今でも見られることがわかります。これは、製作プロセスが基本的に手作業で行われているためです。
その上、各シリーズの数量は依然として限られています。1971年、量産開始から20年が経過し、オーデマ ピゲが生産した6217本の時計は237のモデルに分かれており、それぞれのモデルには異なる素材が使用され、また複数のダイヤルを備えています。100本以上製作されたモデルはわずか23モデルのみで、145モデルは10本未満しか製作されていません。55モデルはユニークピースです。1000本以上生産された最初のモデルは、1972年のロイヤル オーク 5402です。オーデマ ピゲのモデル誕生との番号付けについての詳細は、
こちらをご参照ください。
ジョルジュ・ゴレイ
ジョルジュ・ゴレイは、オーデマ ピゲの創業者一族以外で初めて役員を務めた人物です。しかし、彼の経験と役割はブランドにとって決定的なものでした。
物語は偶然の出会いから始まります。1933年、ジュール=ルイの孫であるジャック=ルイ・オーデマ(1910-2002)は、23歳の時に時計職人としてオーデマ ピゲの工房に入社しました。1939年から副社長を務めている彼は、父親から会社のリーダーシップを引き継ぐ日がいつか来ることを知っていました。苦しい時代を生き抜いてきた彼は、会社の弱点をよく理解していましたが、それと同時にそこに大きな可能性があることを見抜いていました。1945年の春、彼はある日、体操クラブ「ル・ブラッシュ」で知り合った23歳のジョルジュ・ゴレイ(1921-1987)と何気ない会話を交わしました。その際、ゴレイが受けたビジネスに関する教育とその信念について話を聞き、彼はゴレイに仕事を依頼することにしました。
経理として採用されたジョルジュ・ゴレイは、類い稀な商才だけではなく、戦略的なビジョンも持ち合わせていました。ル・ブラッシュで生まれ育ち、旅を愛し、カリスマ的な魅力を持つ彼は、ブランドの再生に重要な役割を果たしました。1950年代末には、ルクルト家の秘書兼代表として取締役会に加わりました。1962年に営業部門の責任者に復帰し、1965年から取締役を務め、1966年から1987年に他界するまで会社の総括的な指導を行いました。まさにこの重要な時期に、彼はロイヤル オークと超薄型自動巻きパーペチュアルカレンダーウォッチという、2つの伝説の誕生を実現させました。
彼は人との繋がりを大切にし、確固たる信念を持った人物であり、毎月一回、ジュネーブのレストラン「ビーナス」で、ロレックスのアンドレ・ハイニガー社長と、パテック・フィリップのアンリ・スターン氏と一緒に食事をしていたと言われています。この3人は「高級時計の3人組」と呼ばれていました。彼はル・ブラッシュのオテル ド フランスで、地域の時計業界の経営者たちや同僚、家族、親戚、友人と共にトランプを楽しんでいました。地域の振興に尽力し、ル・ブラッシュで開催された国際スキー大会の会長も務めていました。
超薄型の黄金時代
超薄型時計は18世紀にレピン型キャリバーが発明されて以来存在しており、オーデマ ピゲは1900年代からこの時計に関心を寄せてきました。しかし、ブランドがこの分野で指標とされるようになったのは1950年代以降のことです。1953年当時、超薄型キャリバーを搭載したオーデマ ピゲの時計は全体のわずか5%でした。その後10年間、この数字は平均50%を超え、1958年には77%とピークに達しました。
1953年に製作されたキャリバー2003は、ルクルトの工房から提供されたエボーシュを使用し、大きな成功を収めました。この伝説的なムーブメントの直径は9リーニュ(20.3mm)、厚さは1.64mm。20ドル硬貨に収まるほどの極小サイズです。繊細さとコンパクトさはデザイナーにとって非常に重要であり、ムーブメントがほとんど隠れることで美的表現の自由度が広がります。それ以来、バリエーションは増えていきました。キャリバー2003は主力モデルである5043に搭載されているほか、その姿が空飛ぶ円盤に似ていることから、イタリア市場で「ディスコヴォランテ」の愛称で親しまれている時計にも採用されています。また、スケルトンモデルなどにも用いられています。
しかし、現代的な時計作りには自動巻きが欠かせません。キャリバー2003と同じくキャリバー2120は、1967年にルクルトでモーリス・オーデマにより製作されたもので、センターローターを備えた世界で最も薄型のキャリバーです。
型破りなモデル
宇宙開発、ロックミュージック、電子機器の誕生、スポーツと自動車の急成長、ユートピア的な考え方、経済成長...1950年代と1960年代、2000年には誰もが月や火星で休暇を過ごし、空飛ぶ車で移動する未来が想像されていました。
この創造的なエネルギーは、オーデマ ピゲの時計のデザインにも反映されており、ブルータリズムと宇宙時代のデザインの両方からインスピレーションを得ています。力強いシンプルなライン、大胆な幾何学的フォルム、完璧な仕上げ、力強い文字盤...この時代に誕生した時計は、その時代を反映し、ロイヤル オークへと至る道を切り開きました。
時計デザイナーという職業の存在は、この時期に登場し始めました。オーデマ ピゲの時計は、ケース製作業者や宝飾店、さらには小売業者やブランドと協力して製作されます。例えば、アシンメトリーな時計は、ルー、クロワジエール、ベルジュリュー、クリストフォルなどによってデザインされました。「ディスコボランテ」は、カトラリーやジュエリーで知られるドイツ人デザイナー、ゲブハルト・デュヴェのデザインです。デザインのパイオニアであるレイモンド・ローウィに影響を受けたジェラルド・ジェンタは、時計のデザインを専門にした、最初の時計デザイナーの一人となりました。彼は1962年にオーデマ ピゲと契約を結び、ブランドの依頼に応じてデザインを提供する一方で、独立した立場を維持しました。
クォーツショック
クォーツショック業界は数多くの危機を乗り越えてきましたが、16世紀から現在に至るまで、「クォーツショック」ほど深刻で、衝撃的なものはありませんでした。石油危機(1973年と1979年)やドルの暴落(1971年から1973年)など、30年にわたる栄光の時代が終息を迎える中、より高精度で、安価、かつこれまでとは異なる技術を使用した、真新しいクォーツウォッチが機械式時計を打破しました。数百万本のクォーツウォッチがアメリカや日本の大手電子機器メーカーにより製作されました。
1974年から1984年の間に、スイスの時計製作会社1000社が倒産しました。時計業界は雇用の4分の3を失いました。1974年には8400万本だった輸出量が、10年後には3000万本にまで減少しました。しかし、一部の高級時計ブランドは、電子技術では対抗することのできない機械式時計の名声によりその影響を免れました。このように、オーデマ ピゲは困難な状況の中でも成長を続けてきました。1974年、125人の従業員が9600本の時計を生産し、2500万スイスフランの売上を記録しました。10年後、212人の従業員が12000本の時計を生産し、売上高は6000万スイスフランに達しました。
この成功にはいくつかの理由があります。それは、ロイヤル オーク、そして後ほど紹介する パーペチュアルカレンダー5548です。しかし、何よりも会社の成長を支えているのはその探求心とオープンな姿勢です。一方、オーデマ ピゲはクォーツの可能性を探求し、1974年にモデル6001を発表しました。また、偉大な時計製作の伝統を再び現代に蘇らせました。スケルトン仕上げにより機械式ムーブメントの美しさが際立ち、複雑機構は再解釈されて自動巻きの腕時計に搭載され、懐中時計はエナメルで装飾されています。1980年代以降は、セラミック、タンタル、チタンなどの新しい素材が探求されるようになりました。
革命児 ロイヤル オーク
1972年に発表されたロイヤル オークは、オーデマ ピゲとスイス時計業界の歴史に大きな変革をもたらしました。イタリア、フランス、スイス市場からの要望に応え、ジェラルド・ジェンタが一晩でデザインしたこの時計は、ステンレススティールという素材が初めてゴールドに並ぶステータスに引き上げられた史上初の時計であり、洗練とスポーツ、エレガンスとカジュアル、伝統と斬新なデザインを見事に融合させたモデルでもあります。
モデル5402の誕生以来、ロイヤル オークは並外れた発展を遂げてきました。5万個の小さな穴が刻まれたタペストリー模様のギョーシェ文字盤、サテン仕上げ、ポリッシュ仕上げ、八角形、ラウンド型、トノー型を組み合わせた一体型ケース、落ち感のあるメタルブレスレット、世界最薄の自動巻きムーブメントなどに関する詳細な記事をご覧ください。ロイヤル オークは、オーデマ ピゲが初めて1000本以上製作したモデルです。ゴールド製時計よりも高価であったため、一部の保守的な人々からの批判もありましたが、1972年4月の発売と同時に熱狂的な支持を集めました。
半世紀以上もの間、ロイヤル オークは、ゴールド、プラチナ、チタン、タンタル、セラミック、BMGなど様々な素材を使用し、超薄型モデル、カレンダー、クロノグラフ、トゥールビヨン、ジュエリー仕様、さらにロイヤル オーク オフショアやロイヤル オーク コンセプトのバリエーションを含む、800種類以上のモデルを生み出してきました。この時計は、時計業界全体を通して数多くのコレクションにインスピレーションを与えてきました。
1993年、デザイナーのエマニュエル・ギュエは「ロイヤル オーク オフショア」を発表し、この時計に新たな息吹を吹き込みましだ。そして2002年、クロード・エメネガーはこのモデルをハイテク仕様にデザインし、ロイヤル オーク コンセプトが誕生しました。このコレクションは、チャイミング機構を備えた時計などを復活させるための革新的なプラットフォームとなりました。
1978年 パーペチュアルカレンダー
クォーツショックのさなか、ジュウ渓谷の時計工房が次々と閉鎖されていく中で、“ル・ミック”という愛称で親しまれていたオーデマ ピゲの時計師ミッシェル・ロシャは、密かにあるプロジェクトを立ち上げました。1973年に技術部門を設立したジャン=ダニエル・ゴレイと、1967年にアフターサービス部門を設立したウィルフレッド・バーニーと共に、ジュウ渓谷の時計学校の協力を得て、自動巻き腕時計用の超薄型パーペチュアルカレンダー機構を開発しました。
最初のモデルが出来上がると、3人はジョルジュ・ゴレイにプロトタイプを披露しました。キャリバー2120/2800は、世界で最も薄い自動巻きパーペチュアルカレンダーであり、とても興味深いプロジェクトでした。ただ、このような作品を求めている顧客がいるのかどうか、まだ誰にも分かりません。当時パーペチュアルカレンダーの腕時計をシリーズで製作しているブランドはほとんど存在しませんでした。しかし、ジョルジュ・ゴレイは賭けに出ました。彼は159本の製作を決定しました。当時、オーデマ ピゲがパーペチュアルカレンダー機構を備えた腕時計を12本しか製作していなかったことを考えると、驚くべき数字だと言えるでしょう。
そして、これは見事な戦略でした。思いもよらぬ成功を収め、このムーブメントは15年の間に70種類、7000本以上の時計に搭載されました。その中でも、5548が最も多く使用され、2183本が製作されました。1984年に誕生したロイヤル オーク パーペチュアルカレンダーの歴史の詳細はこちらから。オーデマ ピゲの自動巻きパーペチュアルカレンダーは、複雑機構を備えた高級時計製作の未来の可能性を示すものでした。
3代目
創業家の3代目が、アジアとアメリカのクォーツ時計の猛威に立ち向かうべく、会社を牽引しています。1959年、ジャック=ルイ・オーデマが父ポール=ルイの後を継いで技術部門の責任者に就任しました。そして、彼の手によりキャリバー2121の製作とクォーツ技術の研究が進められました。当時、この役職には時計の製作も含まれており、そのためジャック=ルイはロイヤル オークをはじめ、すべての新しいモデルを監督していました。サッカー、ボクシング、モータースポーツを愛する彼は、1966年から1992年まで取締役会長を務めました。
ピゲ家は1979年以来、ポレット=ガブリエル・ピゲ(1921-2003)が取締役会の一員として活動しています。穏やかな性格の彼女は、世界改革派教会連盟の事務局長としての職務と並行して、取締役会の一員となった初の女性です。もう一人の女性もまた、重要な役割を果たしています。フローレンス・ピゲは1961年に経理担当として入社し、人事部長を経て副所長を務めました。ジュウ渓谷で初めてコンピューターを導入し、従業員リストを管理したのも彼女でした。
1987年10月、ジョルジュ・ゴレイが入社42年目にして急逝したとき、取締役会は彼の後継者としてフローレンス・ピゲを提案しました。彼女はその提案を丁寧に辞退し、一方で財政管理を引き継ぎました。その後、経営は2人の男性に任されました。一人目は、世界に向けて新たな扉を開いたスティーブ・アークハートです。1946年トリニダード生まれの経済学者である彼は、製品、マーケティング、顧客について鋭い洞察を持ち、1974年に営業部長の職を引き継ぎました。もう一人は、ジュウ渓谷の最も歴史のある家系の出身で、この地域で最初の時計職人の名を受け継ぐ人物です。ジョルジュ=アンリ・メイランは1985年にエンジニアとしてオーデマ ピゲに入社し、製作責任者に任命されました。1997年、スティーブン・アークハートが時計製作のキャリアをスタートさせたオメガで取締役会長に就任し、ジョルジュ=アンリ・メイランはオーデマ ピゲのCEOに就任しました。
「クォーツショック後」の時代には、製品やコレクションの面で、目を見張るような創造性が花開きました。この時代はまた、流通の確立と、垂直統合生産に向けた転換期でもありました。
「コレクション」とおっしゃいましたか?
「モデル」という概ユイティエムてから21年後の1972年、オーデマ ピゲは初めて時計を「ロイヤル オーク」と名付け、これがブランドの初のコレクションとなりました。
同じ頃、オーデマ ピゲは社内デザイナーという役職を新たに設けました。ジャン=フレッド・メイランによる短い在任期間(1972年~1975年)の後、ジャクリーヌ・ディミエが24年間この役職を務め、1987年からはエマニュエル・ギュエが彼女のアシスタントを担いました。1999年までにオーデマ ピゲで製作された時計のデザインの多くは、彼らの手によるものです。ジュネーブを拠点とする2人のデザイナーは、毎週ル・ブラッシュを訪れ、営業部門責任者のスティーブ・アークハートと技術部門責任者のジャン=ダニエル・ゴレイにデザインをプレゼンしました。
その結果、豊富なコレクションが生まれました。例えば、「フィロソフィーク」(1981年)、「バロック」(1986年)、「ユイティエム」(1988年)、「オーデマリー」(1990年)、「スターホイール」バリエーション(1991年)、「ロイヤル オーク オフショア」(1993年)、「ジョン シェーファー」(1995年)、「ミレネリー」(1996年)、「カーネギー」(1996年)、「プロメッセ」(1998年)、「サバンナ」(1998年)などが挙げられます。
1990年代後半には、製品部門と広報部門が発足しました。オーデマ ピゲは創立125周年を迎える準備を進め、職人たちは125本のユニークピースの製作に忙しく働いています。同時に、オーデマ ピゲは創業者の名を冠した2つの代表的なコレクションを発表します。ジュール オーデマはラウンド型、エドワード ピゲはレクタンギュラー型で展開されました。コレクションの数は徐々に絞り込まれ、各コレクションのアイテム数は、限定版や複雑機構、そして新しい素材において幅広く展開されています。
1999年以来、デザインチームは進化し続けています。クロード・エメネガー(1999-2003年、その後2015-2017年)がジャクリーヌ・ディミエの後任としてデザイナーに就任します。彼こそが、2002年に「ロイヤル オーク コンセプト」をデザインし、2019年に発表されるオーデマ ピゲの「CODE 11.59 バイ オーデマ ピゲ」を手掛けた人物です。2003年からのフィリップ・ヴァプツァロフやオクタビオ・ガルシアもまた、同部門の歴史において重要な役割を果たした人物です。オクタビオ・ガルシアはブランドのアイデンティティを再定義し、2012年には「ルールを破るには、まずそれを習得しなければならない」という印象的なキャンペーンを打ち出しました。2019年より、ヌーシャテル出身のセバスチャン・ペレがオーデマ ピゲのデザイン部門を統括しています。
複雑機構の旋風
パーペチュアルカレンダー5548(第18章)の成功は、その他の複雑機構を展開するための大きなステップとなりました。1986年、オーデマ ピゲは初の自動巻きトゥールビヨン時計(モデル25643)を発表しました。このモデルは、スウォッチ社の創業者であるアンドレ・ベイナーのアイデアに基づくものです。当時、トゥールビヨンが何であるかを知っていたのは、一部の専門家だけでした。精度を向上させるために設計されたこの特別な機構は、時計の中心部を際立たせる役割も果たし、クォーツに対抗する機械式時計の魅力を際立たせる重要な役割を果たします。この発想は非常に素晴らしく、わずか数年のうちにトゥールビヨンは時計業界全体に普及しました。
同じ1986年、ル・ブラッシュの工房出身の2人の才能ある若い時計職人が、ル・ロックルという小さな町に会社を設立しました。ジュリオ・パピとドミニク・ルノーは、複雑機構を備えた機械式ムーブメントの製作方法を根本から見直すことに着手しました。その6年後、ルノー&パピはオーデマ ピゲのためにキャリバー2865を製作し、オーデマ ピゲにリピーター腕時計が復活しました(モデル25723)。
1992年、マニュファクチュールはミニッツリピーター、パーペチュアルカレンダー、クロノグラフという3つの複雑機構を備えた初の自動巻き腕時計を発表しました(モデル25725)。1996年にスプリットセコンド機構が追加されたキャリバー2885が誕生しました。以来、グランドコンプリケーション腕時計に搭載されるようになったこのキャリバーは、19世紀以来続く伝統を受け継いでいますが、以前は懐中時計にのみ使用されていました。
もう一つの技術的な偉業は、グランドソヌリ機構です。これは、おそらく時計業界で最も洗練された複雑機構です。1980年代半ば、この機構がオーデマ ピゲの時計に搭載されなくなってから1世紀近くが経とうとしていた頃、ある若い時計職人が現れました。フィリップ・デュフォーです。彼は、ル・ブラッシュのブランド、オーデマ ピゲのためにグランドソヌリ機構を製作することを提案しました(モデル25711)。この機構はル・ロックルの工房で小型化され、1994年にオーデマ ピゲ初のグランドソヌリ腕時計が誕生しました(モデル25750)。
そこから複雑機構の流れが再び始まりました。その後、「トラディション デクセランス」と名付けられた6つのモデルが登場し、1998年のカリヨンソヌリや2000年のイクエーション オブ タイムなど、機械式複雑機構ウォッチの技術を継承し、さらにそれらを刷新する数々の革新的な技術が登場しました。
新技術と新素材
クォーツショックの後、機械式時計の設計と製作方法は大きく変化しました。わずか数十年の間アラクテリエーターは至るところに普及しました。デザイン部門および技術設計部門にもコンピューターが導入されました。デジタル形式の場合、デザインを簡単に修正、共有し、他のデザインと組み合わせたり、ムーブメントのすべてのコンポーネントを一つのファイルにまとめることができます。品質管理のための研究室にもコンピューターが導入され、製作方法とプロトタイピング方法に革命をもたらしました。新技術により、CNC(コンピュータ数値制御)マシニングセンタは、数十種類の異なる工具を用いて、何十回もの連続した操作を自律的に行うことが可能となりました。これらの新しいツールは、部品の形状に関する可能性を大きく広げます。そして、かつてないほどの精度を提供し、新しい素材の加工を可能にします。新たな職業が現れ、何世代にもわたる伝統的な技術を揺るがしています。
手作業とハイテク技術の調和を追い求めるオーデマ ピゲは、機能性や人間工学、サイズなどに関して、新しい可能性を追求する先駆的存在です。しかし、革新が特に顕著なのは素材の領域です。
1981年、ブランドはスティールとゴールドを組み合わせた、いわゆる「パジャマ」ウォッチを発表しました。その5年後、「バンブー」ウォッチのストラップとケースにセラミックが採用され、1988年には初のタンタル製ケースが登場しました。1997年にはチタンが登場しました。2002年、新しいミレニアムの幕開けと共に、あらゆる側面において革新的な時計が発表されました。それが機械加工が不可能とされていたアラクテリエを初めて使用した、ロイヤル オーク コンセプトです。2001年、ロイヤル オーク オフショアのベゼルは、ゴールド製であったにもかかわらず、それを保護するためにラバーで覆われてたのです!2007年には、航空宇宙産業から生まれたフォージドカーボンをロイヤル オーク オフショア アリンギに採用するという、もう一つの世界初の試みが行われました。また2010年には、登場した金属とセラミックを組み合わせた超耐久性素材であるサーメットも登場しました。
スターとスーパースター
オーデマ ピゲの創業以来、多くの著名人がル・ブラッシュの工房で作られた時計を腕に、あるいはジャケットのポケットに収めてきました。クライスラー・ブランドとその名を冠した建物の創業者であるウォルター・クライスラー(1875-1949)、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領(1890-1969)、歌手のフランク・シナトラ(1915-1998)、イランの国王モハメド・レザ・パフラヴィー(1919-1979)、ファッションデザイナーのカール・ラガーフェルド(1933-2019)などが挙げられます。
1980年代以降、いくつかの友情がパートナーシップに発展しました。例えば1989年、若き天才ゴルファー、ニック・ファルドがブランドのアンバサダーに就任しました。オーデマ ピゲは、チェス界のガルリ・カスパロフやスキー選手のアルベルト・トンバなど、他のチャンピオンたちとも提携を結びました。また、セーリングの世界にも注目し、スイスのボートチーム、アリンギが2003年と2007年にアメリカズカップで優勝したことで、さらにオーデマ ピゲの知名度が高まりました。
ですが、1999年に遡りましょう。オーデマ ピゲは順調な成長を遂げ、125周年の節目を迎える準備を整えています。330人の従業員が年間約15000本の時計を生産し、売上高は1億スイスフランに迫る勢いです。それでも、ブランドは一般の人々にはほとんど知られていない状態でした。そこで、ある顧客をル・ブラッシュの工房に招待しました。彼の名前は、アーノルド・シュワルツェネッガーです。両者の間で友情が生まれ、そして限定モデルが誕生しました。ロイヤル オーク オフショア エンド オブ デイズは、ブランドの知名度を飛躍的に高めました。アメリカ支社の若きディレクター、フランソワ=アンリ・ベナミアスは、その流れでシャロン・ストーン、ソフィア・ローレン、ジョージ・クルーニー、ボクサーのモハメド・アリなど、映画界のスーパースターたちを招待したチャリティオークション「Time to Give」を開催しました。
ロイヤル オーク オフショアは、エンターテイメントと文化の領域への進出において重要な役割を果たしました。外向的で創造的であり、成功と若さを象徴する存在です。このモデルは、ミハエル・シューマッハ、ルーベンス・バリチェロ、レオ・メッシ、セリーナ・ウィリアムズといった著名なスポーツ選手たちにも愛されています。2005年には、アメリカのラッパー、ジェイ・Zは、自身の活動10周年をロイヤル オーク オフショアの特別モデルで祝いました。これを機にオフショアは音楽界に進出し、ヒップホップのスターたちに愛用された最初のラグジュアリーウォッチとなりました。オーデマ ピゲはヒップホップの歌詞の中で最も引用されるブランドの一つにもなりました。2020年にはマーベル・スタジオと、2023年にはラッパーのトラヴィス・スコットのブランド「カクタス・ジャック」と、2024年にはアーティストのKAWSと提携し、ポップカルチャーの領域を探求し続けています。
4代目
1987年、ジョルジュ・ゴレイの死後、創業家の第4世代が社会の運営方法を学ぶために、ひっそりと取締役会に加わりました。
1992年、ジュール=ルイ・オーデマの孫は、彼の娘であり、優れたジャーナリストでカリスマ的な人物であるジャスミンに会長職を譲りました。ジャスミンはジュネーヴ・ジャーナルの編集長としても知られていました。同日、オーデマ ピゲはロイヤル オーク誕生30周年を記念し、森林保護のためのオーデマ ピゲ財団を設立しました。
同年より、オリヴィエ・オーデマは叔母のポレット・ピゲの後を継ぐため、取締役会に参加することとなりました。オリヴィエ・オーデマが、オーデマの姓を名乗っているのは、母親のミシェル・ピゲがオーデマ家に嫁いだためです。彼は、ルイ=ベンジャミン・オーデマを先祖に持ちながらも、ピゲ一族を代表しています。エンジニアであり、起業家であり、ジュウ渓谷とその専門技術に深い愛着を持つコミュニケーターである彼は、先代たちの志を引き継いでいます。
1990年代初頭から、大手時計グループが急速に成長する中で、オリヴィエとジャスミン・オーデマは自社の独立性を確保するため、大規模な垂直統合化を開始しました。1988年、オーデマ ピゲは当時深刻な状況にあったジャガー・ルクルトに出資しました。2000年、これらの株式はリシュモングループに売却され、これによりグローバルな販売拠点の設立と新工房の開設が促進されました。
垂直統合
エタブリスールから統合型のマニュファクチュールに移行するためには、多くの技術を習得し、エボーシュ、切削、ラボラトリー、ケース製作、文字盤、ギョーシェ彫り、仕上げ、機械加工、デコレタージュ、カッティング、パッド印刷などの各工程に対応する工房を設立する必要があります。
これらの工房を収容するために、オーデマ ピゲは時間をかけてル・ブラッシュにいくつもの建物を建設しなければなりません。2000年には、ルート・ド・フランス通り16番地にある歴史的な建物の拡張が行われました。2008年、マニュファクチュール・デ・フォルジュが主要生産拠点として開設されました。現在は施設が手狭になったため、2027年に完成予定の300メートルの長さを誇る、ローターをイメージしたデザインのマニュファクチュール・デュ・ブラッシュがマニュファクチュール・デ・フォルジュの代わりに新たな生産拠点となります。この建物の一部であるアルクが、2024年にスタッフに公開されました。
ジュネーブでは、1982年に設立されたセントロール社のケース製作工場が1991年に買収された後、幾度かの拡張を経て、2014年に新しい建物に移転しました。2021年にオーデマ ピゲ メイランと名称を変更し、2026年には新たな製作施設への移転準備を進めています。ル・ロックルという小さな時計製作の町で、ルノー&パピは1992年にオーデマ ピゲに買収されました。同社は2003年に新社屋に移転し、2021年には再びマニュファクチュール・デ・セニョルへと移転しました。これを機に、社名をオーデマ ピゲ ル・ロックルと改めました。さらに、よりお客様にとって身近な場所で時計のアフターサービスを提供するため、シンガポール、ブザンソン、フロリダなど世界各地に複数の工房や建物が新設されました。
ル・ブラッシュを訪れる人々を歓迎するために設計された2つの象徴的な建物が、生産拠点を補完する形で設立されました。2020年以来、螺旋構造のミュゼ アトリエ オーデマ ピゲは、ブランドおよび地域の歴史、そしてインスピレーションの源をご紹介するショーケースとして機能しています。すぐ近くに位置する、新しく生まれ変わったオテル・デ・オルロジェでは、自然の起伏を取り入れた、時代を超えた風景を堪能していただけます。これら2つの建物は、デンマークの建築家ビャルケ・インゲルスが設計を担当しました。
飛躍的な成長
垂直統合生産に伴うオーデマ ピゲの急成長は、2012年にフランソワ=アンリ・ベナミアスがCEOに就任したことでさらに加速しました。
「時計業界のアンファン・テリブル(恐るべき子供)」の異名を持ち、自らの力で成功を手に入れた流通の天才であるこの人物が、スイス人のフィリップ・メルク(2009-2012年)の後を引き継ぎ、ブランドにかつてないほどの知名度をもたらしました。彼の指導のもと、オーデマ ピゲは長期的な成長と、人間同士の繋がりを基盤とする企業文化を推進し、大きな変革を遂げました。彼によって、オーデマ ピゲのビジネスモデルを単一ブランドの直営店舗ネットワークへと進化させ、お客様とより密接で直接的な関係を築きながら、顧客体験の向上を図りました。
そして、2018年には売上高が10億スイスフランを突破しました。4年後には、コロナ禍にもかかわらず売上を倍増させることができました。
2000年時点で355人だった従業員数は、25年後には約3000人に達しました。ジュウ渓谷の1300人を含む1800人の従業員がスイスに拠点を置き、約1000人が世界各国の主要都市で活動しています。生産能力も向上し、2000年の時点では18500本だった生産数が、2025年には約5万本に達する予定です。
お客様との交流
時計を身に着けるお客さまを理解し、信頼関係を築き、要望に耳を傾けることで、オーデマ ピゲは、1世紀以上にわたりお客様との親密な関係性を目指してきました。お客さまには、マルチブランドの小売店、宝飾店、さらには他の時計ブランドも含まれます。
お客さまとの距離を縮めるため、オーデマ ピゲは1993年にジュネーブで初のブティックをオープンしましたが、本格的な店舗展開が開始されたのは2000年代に入ってからになります。ミラノ(2005年)、シンガポール(2006年)、クアラルンプールと東京(2007年)、台北(2008年)、ニューヨーク(2010年)などにブティックがオープンしました。これらの販売拠点は、主に販売代理店との提携によって運営されていますが、オーデマ ピゲが自ら運営することもあります。こうした流れの中、オーデマ ピゲが習得すべき新しい職業として、販売業務が含まれるようになりました。余談になりますが、従業員名簿には、ブランド初の「販売員」として1976年に採用されたジャン=クロード・ビヴェの名前が記されています。販売員一人ひとりがブランドのアンバサダーになれるよう、2007年に開設された「オーデマ ピゲ アカデミー」という研修センターを中心に、研修プログラムが開始されました。各店舗が最高の品質と本物のブランド体験を提供できるよう、2000年には約700店あった店舗数を2010年には300店に、2025年初頭には全国で82店(そのうち52店がオーデマ ピゲ ブティック)に削減する予定です。
2018年、オーデマ ピゲは、温かく親しみやすい、和やかな雰囲気の中でお客さまとの特別な関係を築くために、革新的な「APハウス」というコンセプトを打ち出しました。それは、大都市に位置する、販売店という枠を超えた出会いの場としてデザインされています。各施設がそれぞれの個性を発揮し、広々としたバーやファミリーテーブル、ラウンジスペースを備え、現代アートで装飾されています。また、小さな博物館やピアノ、卓球台、テーブルサッカーが設置されていることもあります。2018年、最初のAPハウスがミラノにオープンし、続いて2019年に香港、その後マドリード、バンコク、ロンドン、東京、ニューヨークなどに展開されました。2025年初頭、ブランドは22のAPハウスを展開しており、その中でも最大規模が2024年にミラノにオープンした5階建てのAPハウスです。
R&D世代
一部の人々の予想とは裏腹に、クォーツ時計が機械式時計を消し去ることはありませんでした。スマートフォンやスマートデバイスの普及にもかかわらず、機械式時計の魅力が薄れることがなかったのは、それが単なる時間表示以上のものを提供するからでしょう。機械式時計、それは文化、デザイン、そして技術のシンボルであり、また安定した価値を保障し、尊敬や名声をもたらす手段です。それはルネサンス時代から変わることはありません。しかし、ここ数十年で機械式時計に新たに求められているものは、耐久性や防水性、精度、数日間のパワーリザーブ、そして使いやすく操作ミスの心配がないこと、また視認性や快適性… つまり「人間工学的」な設計です。
このような新しい要件に応えるために、オーデマ ピゲは2000年代から、独自の研究部門とラボラトリーを設立しました。エンジニアと時計職人が互いに創意工夫を凝らし、類まれな時計を生み出します。その中には「研究開発」を意味するRDという名称がつけられたモデルもあります。
例えば2009年に発表された、ミレネリー カーボン ワン(モデル26152)の重さは70グラム以下でした。2015年、機械式「ラップタイマー」システムにより、モーターレース中のラップタイムの連続計測が可能になりました(モデル26221、第22章の画像を参照)。翌年には、防水性を保ちながらリピーターウォッチの美しさと音の大きさを向上させたスーパーソヌリRD#1(モデル26577)が登場しました。2018年、パーペチュアルカレンダーの機械構造を見直し、精度を保ちながらもさらなる薄型化が実現しました(RD#2、モデル26586)。2022年に発表された振幅の大きなエスケープメント(RD#3、モデル26660)はエネルギーの制御を改善し、2023年にジュネーブ・ウォッチメイキング・グランプリを受賞した「CODE 11.59 バイ オーデマ ピゲ ウルトラ コンプリケーション ユニヴェルセル」(RD#4、モデル26398)の開発に繋がりました。23の複雑機構と17の技術的特徴を備えたこの時計は、超複雑機構ウォッチのカテゴリーにおいて、かつてないほどの使いやすさと着け心地を提供します。
ファイヤーワーク
ブランドの創造力は、時計業界にとどまらず、自動車、ファッション、材料工学、ジュエリー、現代美術、音楽、建築、舞台美術など、さまざまな分野の新たな才能からインスピレーションを得て、多くの時計を生み出しました。それは、複雑機構、素材、装飾、ケースのデザイン、小型化、ハイジュエリー、スポーツ、ポップカルチャー、プレシャスストーン、音響技術などさまざまな領域に広がります。
2019年に発表されたCODE 11.59 バイ オーデマ ピゲ コレクションは、ラウンド型と八角形を組み合わせたデザインでした。一見シンプルなこの時計は、技術面とデザイン面の両方で非常に高度なディテールが施されています。丸みを帯びた八角形のケース、超薄型のベゼルに溶接されたアーキテクチャルなラグ、
ダブルカーブのサファイアクリスタルなどが特徴です。
また、素材ラボラトリーはSPS(スパークプラズマ焼結)技術を使用し、セラミックやゴールド(クロマ プロジェクト)といった完璧に均質な素材に、色を配置することに成功しました。
続いて、オーデマ ピゲは「サンドゴールド」という、豊かで変化に富んだ輝きの新たなゴールドカラーを発表すると共に、
時計業界初の貴金属のBMG(バルクメタリックガラス)を開発しました。
仕上げに関しては、ジュエリーデザイナーのカロリーナ・ブッチとのコラボレーションにより、2016年に「フロステッドゴールド」という、ダイヤモンドで叩き上げる加工を施した新しい装飾を発表しました。ロイヤル オークウォッチのケースに施された100万個もの小さなファセットホールが、ダイヤモンドダストのような輝きを放ちます。
ジュエリー、時計、ファッションの要素を融合させた、直径わずか23mmのロイヤルオークミニで1997年のミニアイコンを復活させました。ヴィンテージのカテゴリーでは、1943年と1960年にブランドの歴史を彩った2つの作品にスポットを当てた「リマスター」の最初の2モデルが、新たなヘリテージコレクションの幕開けを飾りました。
2025年のオーデマ ピゲ
ジュール=ルイ・オーデマがル・ブラッシュに小さな工房を開いてから150年、オーデマ ピゲは今も同じ村で活動を続けています。現在なお創業者である2つの家族による経営を貫いていますが、長い年月を経てルクルト家やゴレイ家などの他の家族の子孫も経営に加わるようになりました。ジュウ渓谷への強い結びつきは、他の地域や異なる分野の人々からの協力によりさらに豊かなものになりました。2022年より、起業家であり、ラグジュアリー業界に精通している、ティファニーの取締役だったアレッサンドロ・ボリオーロが取締役会長を務めています。2024年1月、イラリア・レスタがオーデマ ピゲの経営を引き継ぎました。彼女は、フィルメニッヒやプロクター・アンド・ギャンブルなど時計業界以外の経験を基に、エネルギッシュで先見性のある指導力を発揮しています。
数々の試練や繁栄の時期、迷いや喜びの中にあった時でも、オーデマ ピゲは創業者の精神に忠実であり続けました。
今もなお独立性を保ちながら、職人を誇りに思い、技術を守り続けてきたオーデマ ピゲは、絶えず革新し続け、世界に目を向け、そこからインスピレーションを得て素晴らしい時計を創造し続けています。
3000人以上の従業員が、家族のような絆と情熱、そして確固たるコミットメントに支えられ、これまで以上に強く結びついています。エタブリサージュの時代と同じように、数々のプロジェクトは多彩な才能と共同作業、そして人々のエネルギーの結びつきから生まれます。細部へのこだわりは、常に新たな時計を生み出すための指針であり続けています。オーデマ ピゲは妥協することなく、独自の道を切り開き続けていきます。
2025年2月 オーデマ ピゲ ヘリテージチーム











































































































































































































































































