
アトリエ デ エタブリスール
まとめ
はじめに
2024年初春に発表されたアトリエ デ エタブリスールのプロジェクトは、イラリア・レスタがオーデマ ピゲのCEOに着任後、3ヶ月もしないうちに始まった最初のプロジェクトの一つです。彼女はこの構想について語る際、特に強い想いを寄せる次の点を強調しています。「このプロジェクトは何よりもまず、独創的で、しなやかかつ創造性に富んだデザインと生産の手法であり、エタブリサージュと呼ばれる歴史的なシステムを現代に甦らせる、職人たちの協働によるアプローチです。そこはクラフツマンにとって、まさに卓越した創造の場と言えるでしょう」
まずは「エタブリサージュ」という言葉について整理しておきましょう。ジュラ地方のスイス時計製作と切り離すことのできないこの概念は、ジュネーブの時計製作における「キャビノティエ」という言葉にも通じるものがあります。エタブリサージュとは、ひと言で言えば、数十におよぶ小規模な独立工房がネットワークとして連携し、「エタブリスール」と呼ばれる時計師の統率のもとで、一点物あるいはごく少量生産のハンドクラフトによる時計を共同で生み出す制作体制を指します。
このエタブリサージュのシステムは、19世紀に最盛期を迎えました。しかし産業革命以降、スイスの時計製作は、大規模な機械化設備を中核とするマニュファクチュール体制へと徐々に移行していきます。これは大量生産を可能にするために不可欠な変化でもありました。
ではなぜいま、姿を消しかけていたこのやり方を、再び甦らせるのでしょうか。その背景にある思想を理解するため、本記事ではエタブリサージュの起源に立ち返るとともに、20世紀を通じてオーデマ ピゲがこの制作方法へのコミットメントをいかに保ち続けてきたかを紐解いていきます。
ただしその前に、さらに時代を遡る必要があります。エタブリサージュという概念は、それ以前に存在していた制度、すなわち「ギルド(同業組合)」、別名「コーポラシオン」や「メトリーズ」と呼ばれた時計製作の世界との対比によってこそ、その本質が浮かび上がるからです。
エタブリサージュに先行したギルド制度
16世紀、時計が王侯貴族の宮廷やヨーロッパの富裕な市民階級の家庭で次第に普及するにつれ、主要な生産拠点に拠る時計師たちは、自らの職業を組織化し保護するため、ギルド(同業組合)を結成するようになりました。これは、織工や金細工師、パン職人など、他の多くの職種にならった動きでした。
この潮流の先駆けとなったのは、1544年のパリの時計師たちでした。続いて約10年後にはニュルンベルク、さらにドイツ、英国、イタリアの諸都市へと広がっていきます。1601年にはジュネーブの時計師たちが独自のギルドを設立し、そのモデルはスイス国内の他の主要都市にも影響を与えました。
ギルド制度の目的は、品質基準を保証することにありました。多くの場合、価格を定め、生産量を制限することで、すべての構成員に仕事が行き渡るよう管理していました。規則の細部はギルドごとに異なっていたものの、ひとつだけ不変の原則がありました。それは、職人はギルドに加入して初めて、その職業を行う権利を得るという点です。
しかし、ジュウ渓谷のような人里離れた山岳地帯では、当時この地域が管轄下に置かれていたロールの町にある時計師ギルドへ加入するために必要な、8年間にも及ぶ徒弟修業の費用を捻出することは、ほとんど不可能でした。
こうした状況のなか、1742年、この地域で最初の時計師とされるサミュエル=オリヴィエ・メイランは、ロールでの2年間の修業を終えた時点で資金を使い果たし、やむなく地元へ戻ることを余儀なくされます。既存の規則に背きながらも、彼は自ら弟子を取り、学んだ技術を伝える道を選びました。この動きはやがて広がりを見せ、時計製作が急速に浸透していきます。そして1756年には、孤立した渓谷という環境に適応した独自の規則を備えた、彼ら自身のギルドを職人たちが獲得するに至ったのです。
エタブリサージュの誕生
18世紀後半、啓蒙思想の影響を受け、自由主義的な考え方がギルド制度の硬直性や保護主義を批判するようになります。1776年、テュルゴーの法令は、フランスにおけるギルド廃止への動きを本格的に始動させました。
同年、ジュウ渓谷の時計師たちはこの流れを好機と捉え、自らの職業の自由化に踏み切ります。その約20年後にはジュネーブもこれに続きました。以降、誰もが自由に時計師として独立すること、あるいはゼンマイ、歯車、ムーブメント、複雑機構といった特定の部品や分野に専門化することが可能になります。こうして誕生したのが、「アン・パルティ・ブリゼ(production en parties brisées)」と呼ばれる、生産工程を分割する体制です。すなわち、エタブリサージュの始まりでした。
歴史家にとって、ギルド制度の歩みをたどることは比較的容易です。加入記録や主要な決定、紛争の経緯などが、大型の台帳に詳細に残されているからです。しかしその後、この制度が崩壊すると、歴史的資料は、織物、時計製作、農業など複数の仕事を兼ねていた数百におよぶ家庭内工房へと分散していきました。こうした工房の多くは、記録を残したり、アーカイブを継承したりすることがほとんどなかったのです。エタブリサージュによる時計製作は、しばしば「建築家なき建築」にたとえられます。多くの場合、「ブランティエ」がムーブメントの基礎部分を設計・製作し、「カドラチュリエ」が複雑機構を加え、「カドラニエ」が文字盤を構想し製作、「ボワティエ」がケースを設計・製作します。そして「エタブリスール」である時計師が仕様を定め、工程を統括し、組み立て、装飾、仕上げを担います。それでもなお、ひとつひとつの作品は常に協働の結晶です。設計図が用いられることは極めて稀で、「キャリバー」と呼ばれる真鍮製のテンプレートに、軸の位置やブリッジ、歯車の形状が刻み込まれていました。職人たちはそれぞれ独自の秘伝の技を持ち、その関係性は工房から工房へと巡回する「ヴィジトゥール」によって管理されていました。ここから、時計製作の世界において“ Visite” が「検査」を意味するようになったのです。
このシステムは多様な形で機能し、家族関係や友情が職業上の関係と密接に結びついていた点も、エタブリサージュの大きな特徴でした。
こうした意味において、ジュウ渓谷はこの製作手法にとって極めて肥沃な土壌を提供していました。以下のリンク先の記事では、1875年にオーデマ ピゲがこの地でエタブリスールとして創業した経緯、そして職人と家族のネットワークが、いかにして世界屈指の複雑機構を生み出していったのかを詳しく紹介しています。
「グロス ピエス」の驚くべき物語
オーデマ ピゲの記録には、各作品に関わった職人たちの詳細が記されていないことが少なくありません。1921年製の超複雑懐中時計、リファレンス16869、通称「グロス ピエス」も例外ではありませんでした。しかし追加資料の調査とムーブメントの分析により、その制作に携わった大半の職人を特定することが可能となっています。
この懐中時計は、約20もの複雑機構を備えています。1914年4月22日に「レジストル デ エタブリサージュ」に初めて登場し、その時点ですでに、すべての複雑機構と寸法が定義されていました。アーカイブには「Empereur Charles(皇帝シャルル)」と記された封筒が残されており、26リーニュのムーブメント地板は、この地方で初めて電話を導入したことからその異名で知られたシャルル・ピゲによるものと考えられています。
また、1899年に製作されたオーデマ ピゲの「ユニヴェルセル」懐中時計のチャイミング機構を手がけた時計師、ルイ=エリゼ・ピゲの息子たちが、本作のグランドソヌリを担当したことも記録から明らかになっています。さらに、パーペチュアルカレンダー、均時差、ワールドタイム機構の様式は、その作者を強く示唆しています。それは、1901年に当時世界で最も複雑な時計とされた「Leroy 01」のカレンダーを手がけた文字盤職人、レオン・オーベールです。彼の弟子であったP.A.ゴレイは、1933年にパテック フィリップの《ヘンリー・グレーブス》の制作にも参加しています。
一方、トゥールビヨンについては、Capt社のジュール=セザール・キャプトの作であることが、複数の資料によって示されています。
ムーブメントの各機構はすべてジュウ渓谷の工房で製作されましたが、最終仕上げには、オーデマ ピゲはイギリスの名高い職人たちの手を借りています。ケースにはフレデリック・トムズのホールマークが刻まれ、いわゆる「ヴェネチアン・オフホワイト」の文字盤には、著名な文字盤職人トーマス・ウィリスの作風が色濃く表れています。
オーデマ ピゲの資料によると、1915年5月、ムーブメントの受け石はル・ブラッシュのアトリエで「検査(visite)」を受けています。1年後には脱進機が同様の工程を経ました。しかし第一次世界大戦の影響によりプロジェクトは遅延し、チャイミング機構が完成したのは1919年末のことでした。その後1920年5月、共同創業者の息子であるポール=エドワール・ピゲによって最終検査が行われています。
この時計は1920年夏、ジュネーブ見本市で一般公開された後、1885年からオーデマ ピゲのパートナーであったイギリスのゴレイ・ギニャール社へと引き渡されました。同社はこれを時計製造会社 S. Smith & Sonへと託し、同社が最終的な受取人および署名者となりました。1921年には、新聞『The Graphic』がこの作品に丸一頁を割き、ロンドンで家を一軒購入できるほどの価格で、アメリカ人コレクターに売却されたと報じています。一部の資料では、その依頼主がエリオット・キャボット・リーであった可能性が示唆されていますが、彼は1920年に亡くなっており、戦前に発注されたこの時計を目にすることはありませんでした。
その後数十年を経て、この時計はロバート・M・オルムステッドのコレクションに加わります。そして2025年12月8日、サザビーズ・ニューヨークにてオークションにかけられた後、オーデマ ピゲ ヘリテージのコレクションの一部となりました。
マニュファクチュールの時代
最初のムーブメントのマニュファクチュールは、18世紀末、ラ・ショー=ド=フォン近郊のフォンテーヌムロン村に設立されました。しかし、それから1世紀も経たないうちに、ウォルサム・ウォッチ・カンパニーをはじめとするアメリカのメーカーが圧倒的な優位を築き、スイス時計産業は大きな危機に直面します。1876年のフィラデルフィア万国博覧会を視察したジャック・ダヴィッドの報告書は警鐘を鳴らし、いわゆる「アメリカン・モデル」を提唱しました。
これを受け、ロンジン、ゼニス、IWCといった一部の企業は、機械化されたマニュファクチュールの時代を切り拓きます。スイスの時計製作は急速に工業化が進み、1880年に約300万本だった生産量は、1916年には1800万本へと飛躍的な成長を遂げました。
こうした危機が顕在化した1875年、その最初の年に創業したオーデマ ピゲは、エタブリサージュの擁護者としての道を選びます。3世代にわたり、少数の時計師が年間数百本のみを製作し、そのすべては一点物でした。1951年になると小規模なシリーズ生産制が採用され、ムーブメントの多くは、ジュウ渓谷における工業化の先駆者であるルクルト社から供給されるようになります。それでもなお、オーデマ ピゲはエタブリスールであり続けました。1960年には年間販売数が初めて3000本に達しますが、当時スイス時計産業が輸出していた4000万本と比べれば、ほんのわずかな数量にすぎませんでした。
クォーツショック後、業界が高級市場へと軸足を戻すなかで、時計の主要要素を自社で掌握する「統合型マニュファクチュール」という概念が、究極の統合モデルとして浮上します。自社内で手がけるものは外部に委ねるものより優れている、というマーケティング的な主張を超えて、マニュファクチュールモデルは、特にデザインにおける創造の自由度という点で、明確な利点を備えています。統合された体制はイノベーションを促進し、品質基準の設定、工程管理、生産フローや在庫のコントロールをブランド自らの判断で行うことを可能にします。
オーデマ ピゲにとって、もうひとつの重要な利点がありました。それは、垂直統合が独立性を強化するという点です。創業以来ファミリーによって所有・経営されてきた同社は、その在り方を守り続けることを強く望んできました。こうして創業から1世紀以上を経たのち、オーデマ ピゲはマニュファクチュール・モデルを本格的に採用します。その目的は、最初のデザインの一筆から、時計製作、そして流通に至るまで、すべての工程を自らの手で掌握することでした。
アトリエは増設され、専門分野は多様化し、シリーズ生産される時計の性能向上を目指して、製法はより高度で複雑なものへと進化していったのです。
コーヒーブレイクから生まれたアイデア
アトリエ デ エタブリスールの構想は、2024年初春に、コーヒーとブリオッシュを囲んだ何気ない会話から生まれました。就任からまだ3か月も経たない頃、オーデマ ピゲ CEO の イラリア・レスタ は、2012年よりヘリテージ&ミュージアム ディレクターで歴史家でもある、セバスチャン・ヴィヴァス を自身のオフィスに迎えていました。
この日の話題は、1940年代から1980年代にかけて製作されたオーデマ ピゲの希少な時計を含む、卓越したコレクション取得の可能性についてでした。その中には、いくつもの「バンブー」や「コブラ」モデルも含まれていました。
多様なフォルム、仕上げ、文字盤が織りなす豊かなバリエーション、そしていくつかのモデルが放つ圧倒的な美しさを前に、イラリア・レスタ は、オーデマ ピゲ ミュージアムを訪れる多くの来館者と同じ問いを口にします。
「この時計を、もう一度つくることはできるのでしょうか?」
これに対し、セバスチャン・ヴィヴァスは当時の背景をこう描写しました。
「これらの時計は、まさに消えゆこうとしていた世界の中で生まれたものです。当時のオーデマ ピゲはエタブリスールでした。数多くの独立した職人たちのネットワークから、作品が生み出されていたのです。多くはごく小さな工房で作業していました。プロダクト部門も、品質管理部門も、製法部門も、さらにはテクニカルオフィスすら存在していませんでした。図面を持たずに金属を加工する職人さえいたほどです。毎年、オーデマ ピゲは実に多様なデザインを数十点も発表していました。時計は小ぶりで、防水性も耐衝撃性も高くはありませんでしたが、顧客はそれを理解した上で受け入れていました。今日では、到底成り立たないでしょう」
「不可能」。その言葉が、その場に残りました。
時計製作の世界ではまだ新参者であったイラリア・レスタ は、挑戦を愛し、既存のやり方に揺さぶりをかけることも、自身の役割のひとつと考えていました。そこで彼女は問いを重ねます。
「この、しなやかで創造的、そして職人的な協働のあり方を、いま再び甦らせることができるのは、誰でしょうか?」
それは容易な問いではありませんでした。既存のチームにとって、プロセスを迂回することは、単に“学び直す”ことを意味するだけでなく、仕事の質を損なうリスクを伴うものでもあったからです。やがて明らかになったのは、図面もスペアパーツの在庫も持たず、伝統的な手法で日々作業を続けていた最後の職人たちが、ヘリテージ部門に所属する時計修復師たちであったという事実でした。
「ヘリテージチームに、エタブリサージュの真の精神に基づいた新しい時計をつくってもらうことはできないだろうか?」
イラリア・レスタ は、セバスチャン・ヴィヴァス に、この冒険に乗り出し、プロジェクトの指揮を執る覚悟があるかどうか、その答えを出すための1週間を与えたのです。
真っ白なページ
2024年春当時、オーデマ ピゲ ヘリテージ部門のスタッフはおよそ10名でした。歴史的アーカイブの調査・管理やアンティークウォッチの修復に加え、2020年にオープンしたミュゼ アトリエ オーデマ ピゲの運営も担っていました。さらにマーケティングチームと協働しながら、巡回展の企画・制作、AP クロニクルを含む各種出版物の執筆、そして消えゆくサヴォアフェールの保存といった多数のプロジェクトにも関与していたのです。
アトリエ デ エタブリスールの立ち上げが決断された時期は、すでに大きな課題を抱えていました。オーデマ ピゲ創業150周年の祝賀まで残り1年を切るなか、チームは600ページに及ぶ書籍『The Watch – Stories and Savoir Faire(時計 ― 物語と匠の技術)』の執筆を進めると同時に、ブランドの歴史に関する記事を執筆するためアーカイブの精査を行い、さらに2025年5月に上海、6か月後にはドバイで開催予定の、過去最大規模となるオーデマ ピゲ巡回展の準備にも追われていました。
それでもなお、このプロジェクトを断るという選択肢はありませんでした。セバスチャン・ヴィヴァスは、プロジェクトの指針として次の3つを掲げます。
「創造性、機動性、そして伝統的なサヴォアフェールの顕彰」。
では、歴史的デザインに着想を得ることは本当に必要だったのでしょうか。2020年以降、「リマスター」コレクションは、過去の時計を自由に再解釈し、数百本規模のシリーズとして製作するというアプローチを探求してきました。アトリエ デ エタブリスールは、その逆を行く存在となるはずでした。デザイナーには、未来志向で、自由かつ大胆、時に驚きに満ち、壮大かつ華やかであることが求められる一方、時計の開発と製作の方法論は、あくまでエタブリサージュに着想を得ることが求められたのです。小規模な独立工房の職人たちに主役の座を与え、それぞれの時計は、製作した工房自身によって仕上げられ、将来的なメンテナンスも担われることになります。
2024年5月、取締役会はこのプロジェクトを満場一致で承認しました。こうして、物語は書き始められる準備が整ったのです。
プロジェクトの実施
まず、小規模な専任チームが編成されました。2023年にオーデマ ピゲ ヘリテージ部門に「スキル キュレーター」として加わった時計師、ニコラース・ドックスは、かつてオーデマ ピゲの教育部門を率いていた人物です。多様な職能に対する深い理解と、職人たちの技を顕彰してきた経験から、彼は本プロジェクトの責任者として理想的な存在でした。
また、同名ブランドの創設者であり、かつてオーデマ ピゲの購買責任者を務めたクロード・メイランは、ジュラ地方およびレマン湖周辺に点在する職人ネットワークの第一人者です。現在は非常に活動的なセミリタイア期間を、このプロジェクトのため、外部職人の探索とフォローに捧げています。さらに、熟練時計師のジョリス・ラヴァンシーとアリーヌ・ガニューがカスタマーサービス部門から異動し、物流はブリス・メルセ が担当しました。
アトリエ デ エタブリスールは、オーデマ ピゲ社内の多くの部門からも支えられています。プロダクト部門、ジュエリー職人、オープンワークのスペシャリスト、構造設計者、デザインプロジェクトマネージャー、そして各種サポート部門、そのすべてが、機動性とプロセス管理、技術的性能とクラフツマンシップの最適なバランスを追求しています。この試みは、しばしば綱渡りにも例えられるほど繊細なものです。
すべての時計はムーブメントを中心に構築されるため、キャリバーの選定は極めて重要でした。小径ケースに理想的な直径20mmのキャリバー3090(1999年開発)はアップデートが施されました。一方、より大きなサイズに対応するため、2022年に発表された新世代のキャリバー7121 は、マニュファクチュールの時計師ジュリアン・マルテルによって再設計されました。自動巻き機構と日付表示を省き、部品配置を見直すことで、より対称性の高い構造が与えられています。
2024年9月には、社内外の少数のデザイナーが最初のスケッチを描き始めました。彼らの使命は、宝飾用の極小糸鋸を用いたオープンワーク、特殊形状のサファイアクリスタルの製作、チェーンメイキングといった、希少あるいは消えつつあるサヴォアフェールに光を当てることでした。
11月29日、3つのデザインが選定されます。その成果が非常に素晴らしかったので、イラリア・レスタ はチームに対し、これらの時計を 1年半後の ウォッチズ&ワンダーズ ジュネーブにおけるブランドブースでの主役とすることを告げました。それまで本プロジェクトは、明確なアジェンダを持たない探索的な段階にありましたが、この瞬間から、カウントダウンが始まったのです。
エタブリスール ガレ
オーデマ ピゲの故郷であるル・ブラッシュから数キロ離れた場所に位置するジュウ湖は、小石が転がる岸辺に囲まれています。こうした湖畔の記憶と、1970年代に「アラベラ」と呼ばれた時計のデザインが、独立デザイナーのグザヴィエ・ペルノーに着想を与えました。
二つとして同じ小石が存在しないように、このブレスレットを構成するリンクも、延長リンクを除き、すべて異なる形状をしています。不規則なフォルムと配置を持つリンク同士をつなぎながら、しなやかな着け心地と流れるような動きを保つため、ジュネーブを拠点とするジュエラー、ナディア・モルゲンタラーは複数の試作を重ね、リンクの結合部には最終的に極小の球状を用いる方法を選択しました。軽量化を図るため、ゴールド製リンクは中空構造とされ、さらにマリオ・セナペがコソネイのアトリエで厳選・カットした半貴石がセットされています。
ウォッチムーブメントのコンストラクターであるアルチュール・ガレゾは、ケースの不規則なフォルムに完全に調和するよう再設計し、ブリッジには小石を思わせる造形を与えました。モンモランの小村に工房を構えるルカ・ソプラナ は、そのブリッジに、サンドブラスト仕上げよりも洗練された伝統的なフロストテクスチャー仕上げを施しています。
2024年11月、最初のブランクがジョアン・ロシャのアトリエを後にし、アトリエ デ エタブリスールに加わったばかりの時計師アリーヌ・ガニューの手によって組み立てと調整が行われました。彼女は キャリバー3098の性能を確認し、必要な調整を施した後、少数ロットによる製作段階へと進めています。
ストーンダイヤルは精緻にカットされ、超薄型プレートに固定された後、テオ・マサウティス と パブロ・ブレンラがプラン=レ=ウアットのアトリエで設計・製作した、非対称のオーバルケースに組み込まれました。その曲線は、複雑な形状に加工された2枚のサファイアクリスタルへと連続しています。
1本の時計を完成させるまでには数週間を要するため、年間の製作数はごく限られた本数にとどまります。
エタブリスール ピーコック
新たなフォルムと未知の領域を探求することで、見る者を驚かせる。エタブリスールのプロジェクトは、創造性に満ちた壮大な実験の場です。最初のスケッチに取り組んだ若きデザイナー、ケナン・ジェロー は、抽象的なフォルムを用い、「時をどのように表現するか」という発想で造形を探りました。数十点におよぶスケッチの中で、鳥の姿を想起させるものはただひとつ。そこでチームはこう問いかけます。
「本物の鳥にしてみてはどうだろう? 1990年代、オーデマ ピゲは象やライオン、さらには人魚をモチーフにした時計も手がけていたのだから」
構想が具体化するにつれ、プロジェクトは次第に複雑さを増していきました。翼を広げ、頭をもたげる鳥の姿は、着用時に衣服に引っかかる恐れがあるのではないか。翼は手動で開閉できる必要があるのではないか。では、時刻はどのように表示するのか。
しかし2024年11月、このプロジェクトがイラリア・レスタに披露されると、彼女は即座に魅了されます。
「素晴らしい! もし特別な1本をつくるとしたら、まさにこれね」
ウォッチ コンセプション ディレクターのジュリオ・パピ も彼女の熱意に共鳴し、翼を開き、頭部を持ち上げるための機構設計を自ら申し出ました。この技術は、時計師というよりも、むしろオートマタ(自動機構)製作の専門知識を要するものでした。
広げた羽根を持つ孔雀の尾の華やかさを表現するため、サンティミエを拠点とする文字盤職人、ヴァンサン・ミシェルが製作したゴールドダイヤルは、細かな区画に彫り分けられています。それぞれの背景には、ラ・ショー=ド=フォンを拠点とするエングレーバー、ギイ・フロワドヴォーによるハンドエングレービングが施され、同氏は頭部と首の彫金も手がけました。ペズーのアトリエでは、エナメル職人、ヴァネッサ・レッキ が、それぞれの区画に、きらめく色彩を湛えた半透明エナメルを極薄の層として施しています。
一方、ブレスレットは羽毛を思わせる造形で構成されています。ミュゼ アトリエ オーデマ ピゲを拠点とするジュエラー イヴァン・クンツル が、デザインからハンドクラフト、組み立て、仕上げまでを一貫して担当しました。シェルとカバーで構成された各リンクは、外から見えないピンによって連結されています。
翼のパーツは、イプザッハに工房を構える アドリアン・アルトマン のアトリエで、ジュエリー鋳造の技法によって製作されました。ハンマー仕上げのパーツとエングレービングを施したパーツという2つの要素は、チタン製フレームに固定されています。翼が開くと、時刻表示を備えたボックスが持ち上がり、その駆動を担うのが、本作のために再設計された キャリバー3098 です。サンレイ模様のメインプレートを備え、このムーブメントは、他のエタブリスールの作品と同様、完全に手作業で組み立てと仕上げが行われています。
エタブリスール ピーコックは、3つのモデルの中で最初に承認された作品でしたが、とりわけ開閉機構の開発により、その完成までの道のりは長く、極めて複雑なものとなりました。
エタブリスール ノマド
多形性、多機能性、そして現代性。エタブリスール ノマドは、伝統的なクラフツマンシップと最先端技術を融合させたタイムピースです。デザインを手がけたのは リュドヴィック・ピトン。既存の時計の枠組みを超え、新たな使い方を提示することを目指しました。
ケースを閉じた状態では、ジーンズの小さなポケットにも収まるサイズ感に設計されています。2つの謎めいたプッシャーを押すことでロックが解除され、ケースがスライドして開き、オープンワークのキャリバーを通して時刻が現れます。ムーブメントのブリッジそのものが、時を示すインデックスの役割を果たしています。さらにケースをもう一段引き出すと、時計はテーブルクロックへと姿を変えます。
キャリバー7501は、2022年に発表されたキャリバー7121をベースにした、エクストラ シンの再解釈です。3層構造による独自のサンドイッチ構造を採用し、デザイナーが構想した縁によって固定されています。このムーブメントは、宝飾用の極小糸鋸であるボックフィル(bocfil)を用い、オープンワーク専門の職人によって切り抜かれています。この技法は、今日の時計製作において急速に希少性を増しつつあるサヴォアフェールのひとつです。
ケース構造そのものも、卓越した技術の結晶です。金属製の構造に加え、開閉および回転機構は、カルージュに工房を構える エマニュエル・デシュザング のアトリエで開発・製作されました。ケースは、マリオ・セナペ によってファセットカットのストーンがセッティングされた複雑なチタン製メッシュと、特殊なキャリッジ上をスライドする構造を備え、傾けることでテーブルクロックへと変形します。
そのほかにも注目すべきディテールが随所に見られます。キャリバーのアワーマーカーは、ストーンプレートで構成された外周ダイヤルへとシームレスに繋がり、立体的な視認性を生み出しています。アレクシス・ベルナール がコロンビエで製作したサファイアクリスタルは、その特異なサイズゆえに、特別な機械加工を必要としました。また、特別にデザインされたチェーンにはチタンが用いられています。この素材は、これほど複雑なジオメトリーでは極めて珍しい選択です。
アトリエ デ エタブリスールでは、エタブリスール ノマドを数年にわたり、約15本のみ製作する予定です。
一般公開
プロジェクトの最初の対話から、共通の哲学のもとに生み出されながらも、それぞれが根本的に異なる3つのタイムピースが公に発表されるまでに要した時間は、わずか2年余りでした。各タイムピースには、その造形に合わせて最適化されたキャリバーが搭載され、希少なサヴォアフェールが随所に息づいています。
アトリエ デ エタブリスールの構想は、当初ひとつの夢でした。それは、ル・ブラッシュを拠点とするブランドの歴史のなかで、ほとんど姿を消しかけていた世界であるエタブリサージュの精神を甦らせること。明確な成果を急ぐことなく、可能性を探る試みとして、慎重に歩みを始めたプロジェクトは、やがてクラフツマンシップの世界と、現代のマニュファクチュールの世界を交差させる場となりました。
クラフツマンシップは、試行錯誤や修正、大胆で、ときに粗削りな発想によって形づくられ、独立心の強い職人たちの個性と才能に支えられています。一方現代のマニュファクチュールは、プロセス、熟達、管理、そしてフローを重んじる世界です。両者を動かしているのは、いずれも情熱を宿した人々であり、その存在こそが、数々の困難を乗り越える原動力となりました。
限られた生産数を考えれば、このプロジェクトは控えめな形で発表される可能性もありました。しかし イラリア・レスタ は、アトリエ デ エタブリスールを、世界最大の時計見本市であるウォッチズ&ワンダーズ 2026におけるオーデマ ピゲの出展の核とすることを決断します。それは商業的な理由からではなく、サヴォアフェールと、それを体現する職人たちを通じて、時計製作そのものを称えるためでした。
エタブリサージュは、革新的なかたちで再解釈されました。それは、オーデマ ピゲの内外を問わず、各時計の制作に携わった主要な職人の名を初めて明示するというアプローチです。この取り組みは、真に重要なのは、肩書きや組織ではなく、才能、専門性、そしてそれを体現する人そのものであるという事実を、鮮やかに浮かび上がらせています。
「The Future」と名付けられた空間で発表されたアトリエ デ エタブリスールは、新たな機構や素材を研究するラボラトリーと向かい合っています。なぜなら、時計製作において、伝統とは同時に未来を指し示す存在でもあるからです。
オーデマ ピゲ ヘリテージ チーム、2026年4月














































































