
オフショア ジェネシス
1980年代
1993年に誕生したロイヤル オーク オフショアは、度重なる石油危機や通貨危機を経て、経済成長の回復が見られた1980年代からインスピレーションを得たモデルです。レーガン政権やサッチャー政権による規制緩和やグローバル化の加速が進む中、ソ連政府によるグラスノスチの導入により、地政学的緊張に緩和が見られました。
マドンナやスティング、マイケル・ジャクソンのヒット曲を聴いて育った80年代生まれの世代は、カラフルなネオンカラーの洋服に身を包み、快楽主義、自由、成功を熱望しました。この10年を特徴付ける言葉を一つ挙げるとすれば、それは個人主義でしょう。あるいは、ある種の無頓着さとも言えるでしょう。
この頃、スイスの時計産業にも、ようやく明るい兆しが見えてきました。10年に渡る、経済および産業低迷の後、時計産業は徐々に回復してきました。しかし、クォーツショックの影響を受け、労働者の2/3を失っていました。1982年に発売されたスウォッチは、現代性、デザイン、そして安価な時計製造が両立可能であることを証明しました。しかし、時計産業復活の先陣を切ったのはオートオルロジュリーでした。1世紀に渡り、スイス時計の平均価格は下がり続けてきましたが、現在ではその傾向が逆転している状態が続いています。これからは、量より質を重視する時代なのです。
そして、オーデマ ピゲは、時計産業が復活を遂げる上で中心的な役割を担ってきました。経済危機のさなかで戦略的な選択をすることにより、暗黒の時代おいても成長を続けることができたのです。創業者一族が見守る中、ジョルジュ・ゴレイ(1921-1987)が指揮を執り、1972年にロイヤル オークを発表しました。初のクォーツモデル発表と並行して、オーデマ ピゲはスケルトン加工やメティエダール、そして超小型シリーズに力を注ぎました。1978年にパーペチュアル カレンダー、1980年にクロノグラフを発表し、1986年には史上初の自動巻きトゥールビヨン腕時計を開発しました。
このようにして、オーデマ ピゲは厳しい状況にあっても成長を続けてきました。そして、1980年代中頃には、年間11000本以上の時計を生産していました。売上高は6千万スイスフラン、従業員は200人を超え、その大半が今もジュウ渓谷で生活を営んでいます。市場はますます構造化され、スポーツ パートナーシップを開始するなど、益々活発になってきています。このようなパートナーシップは、新しいアイデアを打ち出すために、重要な役割を担っています。
ドイツからのアイデア
ロイヤル オーク オフショアは、近年の時計製造の歴史の中で最も有名なコレクションの一つです。その誕生については、オーデマ ピゲ美術館の前館長であるマーティン= K・ヴェールリをはじめ、多くの人々から語り継がれています。ヴェールリは2012年、記念誌「ロイヤル オーク」で、次のように語っています。「ロイヤル オーク オフショアは、先代モデルとは異なり、特に市場からの需要があったわけではありません。」このモデルは、当時の共同CEOであったステファン・アークハート(署名はスティーブ・アークハート)のビジネス的直観から誕生したと言われていました。そして、誕生20周年を迎えようとしていたロイヤル オークの、より男性的でより若々しいデザインへのリニューアル プロジェクトを若いデザイナーに託したのです。
しかし、この記事の準備中に、オーデマ ピゲのヘリテージチームは、30年以上もの間アーカイブに埋もれていた新たな情報を見つけました。それは、1989年2月2日付けの社内文書です。スティーブ・アークハートは次のように説明しています。「90年代を代表するモデルを開発するよう主張していたヴェッテンゲル氏との話し合いの中で、彼は、そのモデルを"シガレット/オフショア "にインスピレーションを得た作品にするべきだと考えていました。」
ここでは、まずディーク・ヴェッテンゲルについて紹介しましょう。20年間に渡って、ドイツ市場を担当していたディーク・ヴェッテンゲルは、ロイヤル オークの創始者の一人であるイタリア人のカルロ・デ・マルキと対をなす存在でした。1972年、グラフィックデザイナーのオラフ・リューにロイヤル オークのロゴの製作を依頼したのも彼でした。ディーク・ヴェッテンゲルは、1982年からドイツにおけるオーデマ ピゲの独占販売権を持つUHG社(Uhren Handels Gesellschaft、SSIHグループ)の経営を経て、販売代理店オーデマ ピゲ ウーレン社を設立し、1991年からドイツにオーデマ ピゲの子会社を設立した2000年までにこれらの権限を引き継ぎました。パーペチュアル カレンダー腕時計2120/2800の販売促進に尽力し、1980年代にはドイツをオーデマ ピゲのコンプリケーションの主要な市場へと成長させました。
スティーブ・アークハートは、1989年2月2日付けの文書で、ディーク・ヴェッテンゲルの「90年代を代表する作品」の製作に対するこだわりについて言及しています。しかし、彼が言う「« シガレット/オフショア »をコンセプトにする」とは、いったい何を指しているのでしょうか。
オフショア:スピード、パワー、使いやすさ
スティーブ・アークハートの文書には、ドイツの雑誌から切り取った、アメリカのモーターボートブランド、シガレットのビュレット31モデルの光沢ある広告ページが添えられています。
1969年、実業家でボートレーサーのドン・アロノフがニューヨークで設立したシガレットレーシングチームは、当時目覚ましい活躍を見せていました。アロノフの所有するボートは、オフショア レーシングボートの究極のパワーと、豪華な内装の快適さを兼ね備えていました。このボートは、1980年代の象徴として、カルト的な人気を誇ったテレビドラマ「特捜刑事マイアミ・バイス」(1984〜1990年)にも登場しました。
モーターボートレースが盛んだったこの時代、オーデマ ピゲも遅れを取ってはいませんでした。1986年、オーデマ ピゲのオフショアチームはアルベルト・ディ・ルカとアレッサンドロ・ゾッキの2人のパイロットが、樹脂とケブラー®製の、150馬力のエンジン2基を搭載した全長10.5mのカタマランボートを操縦していました。1986年9月6日、イタリアで開催されたオフショアレース世界選手権の6リットル部門で優勝を果たしました。この勝利により、世界選手権準優勝、ヨーロッパチャンピオン、スピードレコードホルダーという称号を得ました。
同年、オーデマ ピゲはモナコ―サントロペ間の権威あるヨットレース「オーデマ ピゲ トロフィー」のスポンサーとなり、このニュースはメディアで大々的に報じられました。「35艇のモンスターが発進する様相:すさまじい大音響とともに一斉にスタートを切る。」モナコ公国のアルベール2世が優勝を勝ち取り、授賞式はサントロペの伝説的なクラブ55で行われました。ちなみに、オーデマ ピゲはその3週間後に、ミス・コンテストの男性版に相当する「ミスター」コンテストを現地で開催しました。そして、このコンテストの優勝者への賞品はオーデマ ピゲの時計でした。また、その数週間前に行われたホイットブレッド世界一周レースでは、スイス人のピエール・フェールマンが優勝し、モナコのアルベール2世が命名したヨットのスピネーカーには、ロイヤルオークが取り付けられていたことも忘れてはいけません。
絶対的な快適さを備えた究極のパワーヨット、快楽主義、自由奔放、ビーチパーティ。このような1980年代を象徴する雰囲気から、ロイヤル オーク オフショアは誕生しました。
すべては名前から始まる
オーデマ ピゲにおいては極めて珍しいことと言えますが、オフショア コレクションの歴史はウォッチのデザインや機能の開発からは始まりませんでした。ロイヤル オーク オフショアの歴史は、名称の登録から始まりました。
スティーブ・アークハートは、文書中に自身の考えを明確に記しています。「私は、オフショアという名称がすでに登録されているかどうかを確認し、まだ登録されていない場合は、直ちに申請をするべきだと思います。なぜなら、この名称は、非常に価値の高い名称となり得るからです。」その4日後、オーデマ ピゲは専門会社に商標登録を依頼し、2月22日に登録が完了しました。
当時は、「オフショア」のコンセプトがロイヤル オークに適用されることは考慮されていませんでした。スポーティで圧倒的な高級感を持つコレクションを製作しようという目的のもと、名称だけが登録されたのです。
ロイヤルオークをリバイバルさせてみては?
1972年、ロイヤル オークは、オートオルロジュリーという静かな世界に小さな革命を起こしました(その過程を紹介した記事はこちらから)。時計界のアンファン・テリブル(異端児)である、世界で最も高価なスティールウォッチ、5402モデルは、時計界のUFOと呼ばれた、誕生当時の姿のままであり続けることもできました。しかし、1976年以降、初めて女性用モデルが製作されると、その後少しずつコレクションを拡大していきました。サイズは縮小され、貴金属、ダイヤモンド、そしてウォッチのコンプリケーションが充実しました。1989年にはすでに129種類のモデルを有し、そのうち86種類はクォーツキャリバーを搭載していました。
さらに言えば、ロイヤル オークは「ラグジュアリースポーツ」という新しいカテゴリーを創り出しました。パテック フィリップやヴァシュロン コンスタンタンなど、多くの企業にインスピレーションを与え、これらのブランドはノーチラスやオーヴァーシーズなど、伝説となるモデルを生み出しました。このように、1980年代後半にロイヤルオークが20周年を迎える頃には、アイコンとしての地位を確立し、クラシックな存在となっていました。それは、周りに順応するようになったということでしょうか?
もしも、ロイヤル オークのパイオニア的で破壊的な個性がまだ残っているとすれば、そのスキャンダラスな香りは消え去ってしまったといえるでしょう。それとも「オフショア」によって、若い世代へと生まれ変わることができるのでしょうか?


エマニュエル・ギュエ、1980年代の熱気
スティーブ・アークハートは、ロイヤル オークをリバイバルさせるための、適任者が誰なのかが分かっていました。2年前、際立った才能を持ったデザイナーがオーデマ ピゲ クリエイション部門のジャクリーヌ・ディミエのもとで働き始めました。
エマニュエル・ギュエは当時22歳でした。ジュネーブに生まれ、幼少の頃から時計作りに囲まれて育ちました。父ジャン・クロードは、ピアジェのポロやボーム&メルシエのリビエラの製作者、そしてレインボーセッティングの発明者であり、当時最も優れたデザイナーの一人でした。2018年に行われたインタビューで、エマニュエル・ギュエは、学生時代、授業中の暇つぶしに数々の時計をデザインしたと語っています...彼がデザインしたブレスレットの一つが、オーデマ ピゲのユイティーム コレクションに採用されたとさえ言われています。
1986年、ギュエはイギリス旅行の資金を得るため、自身のデッサンを売りにジョルジュ・ゴレイに会いに行きました。「イギリスへ行ってきてください。戻ったら、あなたに仕事をお願いしたい。」こうして、エマニュエル・ギュエは1987年6月1日、オーデマ ピゲに入社しました。マネージング・ディレクターが急逝する数カ月前のことでした。後任のスティーブ・アークハートは、ギュエと共に市場を訪れ、顧客との出会いを経験させることで、ブランドの世界観を彼に教えました。
当時、デザインオフィスはジュネーブにありました。ペアとして働くジャクリーヌ・ディミエによる監督のもと、ル・ブラッシュの技術オフィスやプロトタイプ製作者と常に連絡を取り合っていました。そして、若いデザイナーは、とんでもない遊び場を発見したのです。2015年、ル・ブラッシュのヘリテージチームへの取材で彼は、当時はプロダクトマネージャーもマーケティング部門もなかったと振り返っています。「何もかも、自分たちで行っていました。サプライヤーのもとを訪ね、レザーを選び、文字盤の製造業者に会いに行きました。」そして、クォーツショックが終わりを告げると、地平線は無限に広がっていました。「それぞれが、年間に200~300個は作っていました…そして毎月、新しいアイデアを持ってスティーブ・アークハートに会いに行きました。彼は市場を熟知していました。そして、「これはコレクションにしよう、これはアジア向けに10個、20個、50個の限定シリーズで、このデザインはマーグリーズに見せる」と言うのです。彼がすべてを決めていました。驚くべきクリエイティビティを持っている人でした。」
最初のデッサン:コンパスからクロノグラフまで
ロイヤル オーク オフショアの最初の6枚のデッサンは、バーゼルフェアの最終日である1989年4月19日の日付で描かれています。オーデマ ピゲの共同ディレクター、ジョルジュ=アンリ・メイランとスティーブ・アークハートが、オフショア プロジェクトに対する市場の反応を見るために、この展示会を利用したことは間違いないでしょう...
エマニュエル・ギュエのサイン入りグワッシュは、オーバーサイズのケース(直径42mm、高さ16mm)、非常に厚いガスケット、青、緑、黄、ピンクのカラーラバーで覆われたリューズ、丸みを帯びたコマとリンクなど、その後のコレクションの主な特徴をすでに表していました。このウォッチには、コンパスが装備されていることが多いことが、ダイヤルの素案の数々から見て取ることができます。側面のデッサンを見ると、ガラス製風防が大きなループによって強調されていることが分かります。これは、おそらく日付を拡大するためのものでしょう。7月にジョルジュ=アンリ・メイランが作成した文書には、「セラミックやグラファイト、カーボンファイバーなどの新素材」を導入したバリエーションについての記載があります。
このアイデアは、友人関係や仕事上の付き合いが、密接に関わり合うことの多い、山岳地帯のジュウ渓谷で定着していきました。1989年9月、ジョルジュ=アンリ・メイランは、19世紀からオーデマ ピゲにエボーシュを提供していたフレデリック ピゲ社(旧ルイ エリゼ ピゲ社)のオーナー兼ディレクターで、2010年に社名をブランパンと改名することになるジャック・ピゲに会いました。その時ジャック・ピゲは、未来の「オフショア」にクロノグラフを搭載することを提案したのです。それまでロイヤル オークにスポーツウォッチのコンプリケーションが搭載されたことはありませんでした。そして、未来のオフショアほどスポーティなモデルは存在していませんでした! エマニュエル・ギュエは、キャリバーFP1185の設計図に基づいた最初のモデルをスケッチしました。この時計にはスモールセコンドまで装備されていたのです!
そのため、コンパスは不要であると判断され、時計製造のクラシックな機能であるクロノグラフが採用されることになりました。このウォッチを、ロイヤルオーク誕生20周年となる1992年に発表するための準備は全て整ったかのように見えました。ところが、実際にはそうはいきませんでした。
「わぁ、これは大きい!」
2016年の「Le Point」誌のインタビューで、エマニュエル・ギュエは次のように語っています。「オーデマ ピゲで働いていた当時、スティーブ・アークハートからロイヤル オーク オフショアの製作を依頼されました。彼は若者のために、男性的で主張のある時計を作りたかったのだろうと思います。そこで、私が思いついたことは、時計を大きく、分厚くすることでした。当時は、女性が男性用の腕時計を購入することが多くなってきていました。私は、女性にはジュエリーがあるのだから、女性が身に着けられないようなモデルを作らなければ、と考えました。そこで、ロイヤル オークのサイズや細部を大きくし、極めて男性的なモデルを完成させました。」
当時、男性用のロイヤル オークは直径36mm、高さ7.7mm(14700 モデル)が最大でした。14.05mmから42mmに大きく変更するということは、ボリュームを2.5倍にするということです!懐中時計を腕につけているようなものです!スティーブ・アークハートでさえ、最初のスケッチを見た時に「わあ、これは大きい!」と感嘆の声をあげたと言われています。
19世紀の創設以来、オーデマ ピゲは高級時計の常識を覆えしてきましたが、今回ばかりは本当に行き過ぎていました。山間の小さな村にある、伝統に根ざした時計ブランドが、どうしてこんなにも型破りで、常軌を逸した、仰々しい、ありえない時計を作ったのでしょうか?ジャクリーヌ・ディミエは、2011年のインタビューの中で、この時計がブランドの一部の愛好家を心配させることになったと振り返っています。1972年のロイヤルオークが工房の機嫌を損ねたと言うならば、よりパワーアップした次世代のモデルは、工房の大きな反発を引き起こしたと言えるでしょう。スティーブ・アークハートは、若く気骨のあるデザイナーに駆り立てられながらも、社内の評判を聞くと当初の熱意が冷めていくのを感じていました。彼は、成功を信じたい気持ちとの間で、ためらっていました。
2013年、エマニュエル・ギュエは「WorldTempus」誌の中で、次のように語っています。半年に一度は「このプロジェクトは止めにしよう」と言われました。しかし、私は成功を確信していましたので、密かに構想を練り続けました。1991年9月19日、エマニュエル・ギュエはメタルブレスレットのロイヤル オーク オフショアに3つの新しいバリエーションをデザインし、11月にはレザーブレスレットのバリエーションが追加されました。そして、最終的には、スティーブ・アークハートは仕方なく次のように言ったそうです。「わかりました。君のためにやりましょう。」
そう簡単にはいかない...
オーデマ ピゲは、ロイヤル オーク オフショアに搭載するメカニズムを試行錯誤の末に完成させました。自動巻きキャリバー2126/2840(厚さ6.15mm)は、1986年以来「ユイティーム」コレクションに搭載されています。このキャリバーは、ルクルト社で製造された、11½ リーニュ(26mm)キャリバー シリーズがベースとなっています。ルクルト社では1970 年代から 2010年代までの歴史を有するリファレンス889(オーデマ ピゲでは2123、2125、2225など)になります。クロノグラフのフレームに関しては、ジュウ湖から目と鼻の先にあるデュボア デプラ社の工房で製造されています。これは、同社のクロノグラフ プレートが直径 30 mmと、極めて大きなオフショアのケースにより適しているためです。フレデリック ピゲ社が提案したキャリバーは、より薄くて小さい (25.6mm x 5.5mm) ため、1997 年からロイヤル オーク クロノグラフに搭載されています。
1991 年 7 月、1992 年のバーゼル フェアでロイヤル オークの20 周年を記念して、このウォッチの発表が予定されていました。そしてショーケースには、舷窓をかたどったデザインを予定していました!ところが外観の開発が予想以上に複雑であることが判明し、発表は延期せざるを得なくなります。
実際のところ、オーデマ ピゲは1990年5月にはすでにジュラのピボール社と共同で、プッシュピースとリューズを合成素材で覆って保護するための最初のテストを開始していました。1993年7月、ウォッチが正式に発表された後も、最終的な調整はまだ完了していませんでした。ブレスレットは極めて洗練されていました。プロトタイプの製作後、1993年3月に製造業者であるゲイ フレール社が最終的な設計図の作成を開始するまで、待たなければなりませんでした。ケースに関しては、ジュネーブを拠点とするセントロール社 (2021 年にオーデマ ピゲ メイラン社に改名) によって製造され、最初の 5つは1993年9月まで耐水性テストに合格することができませんでした。
開発までに非常に時間がかかったのは、ウォッチの特性が並外れたモデルであったからと言えるでしょう。
高級感と堅牢性
オーデマ ピゲのすべての時計と同様に、ロイヤル オーク オフショア 25721は、伝統的な時計製造に基づいた、最高水準の仕上げが施されています。例えば、ブレスレットのリンクの曲線は一つ一つ手作業でサテン仕上げが施され、ダイヤルはギヨシェ彫りのプチタペストリー、ケースはサテンブラッシュとポリッシュ面取りを組み合わせた仕上げが施され、メカニズムの装飾は言うまでもないでしょう...一方、その外観は激しいスポーツ活動に耐えられるように設計されています。
そして、15721モデルは100m防水を実現した数少ないクロノグラフの一つです。この防水性能は、デザイン性と機能性の両方を追求した、ベゼルとミドルケースの間に圧縮された特大のガスケットによって実現され、またケースを貫通する8個の六角形のビスに繋がるシルバーのガスケットがこれを補完します。
また、初代ロイヤル オーク オフショアは、耐磁性にも優れています。ケース内のスペースに余裕があるため、ムーブメントを保護するための軟鉄製ケージを追加することができたのです。1993年のプレスリリースでは、この重要な機能に触れることはありませんでしたが、1994年1月の報告書により、ISO規格の5倍にあたる、300 Oeまでの耐磁性を保証することが判明しました! クロノグラフの2つのプッシュピースとリューズは、温度変化、摩耗、水蒸気、ガスに極めて強いラバーの一種であるテルバン®のコーティングで保護されています。
新しいウォッチの象徴するレジスタンス、そして航海からインスピレーションを得て、特別に八角形のケースが製作されました。蓋の部分には窓があり、ケースを閉じた状態でも時計を見ることができるようになっています。
パワー、精悍さ、耐久性、大胆なデザイン : 25721STはロイヤル オーク オフショアが最初にインスピレーションを得たレーシングヨットの上を行く、自動車に例えるならばSUV ハマーに相当するウォッチと言えるかもしれません。特筆すべきは、この軍用車両からインスピレーションを得た四輪駆動車が誕生したのは1992年だった、ということです。このように、1972年に誕生したロイヤル オークと1969年に誕生したレンジローバー四輪駆動車の間に見られた類似点が、より大きなスケール感でこの両者にも当てはまると言えるでしょう。
スキャンダル
1993年4月22日から29日まで開催されたバーゼルフェアで、オーデマ ピゲの営業担当者は、ためらいながら、こっそりとロイヤル オーク オフショアの3つのプロトタイプを紹介しました。このような営業担当者の慎重な振舞いにも関わらず、このウォッチは衝撃を呼び起こしました。このウォッチは、30年経った今もなお、オーデマ ピゲの工房にいる誰もが、当時の顧客や同僚、友人から譲り受けた自分だけのモデルを持っているほど、強い印象を残しました。そして、その物語は、ほとんど神話的と言えるほどの変貌を遂げています。
聞くところによると、昔ながらの代理店や小売業者がこのウォッチを初めて見た時、彼らは、忠告をしたり、大変なミスであると指摘したり、挙句の果てにはブランドへの冒涜だと嘆いたのだそうです!直径42mm、厚さ15mmのこのモデルは、16600スイスフランで提供され、スティール製のロイヤル オーク14790の2倍の価格でした。しかし、彼らの息子たちが同伴していた場合には、全く逆の反応を示したそうです。「昔の世代とはまったく異なる、若々しく、大胆でスタイリッシュな高級ウォッチがついに現れた! 」
このウォッチには、さまざまなニックネームが付けられました。時計製造界は、このウォッチを「ビースト(野獣)」と名付けました。エマニュエル・ギュエは2015年のインタビューの中で、ジェラルド・ジェンタがブースに乱入してきたエピソードについて言及しています。「よくも私のウォッチを台無しにしてくれましたね、あなたは冒涜者だ!」繊細さと人間工学を愛する、この最も有名な時計デザイナーは、2011年のインタビューの中で、次のように語っています。「最初のオフショアを見たとき、驚きのあまり叫んでしまいました!」彼が「海のエレファント」と表現するウォッチは、間違いなく異端児です!
オフショアが、ロイヤル オークの常識に囚われない、という特徴を受け継いでいることは間違いないでしょう。しかし、20年前と同じような、商業的な成功に直結するのでしょうか?



失敗作?
モデル25721の最初の100本には、ケースバックに「ロイヤル オーク」の刻印がありましたが、「オフショア」の表記はありませんでした。中には、このモンスターのようなウォッチが、世間に受け入れられていないからなのではと、密かに期待している人もいたようです。そうすれば、プロジェクトの芽は摘まれ、「オフショア」というアイデアをまた別のプロジェクトで自由に使えるようになるはずです...しかし、80年代世代の熱意がそうさせたのでしょうか、100番(あるいは101番)から、このモデルには完全なコレクション名のロゴが刻まれています。
ところが、商業的な成功にはなかなか繋がりませんでした。1993年の販売数はたったの61本でした。確かに、このウォッチは長期間に渡る調整を必要としたため、最初のモデルの納品は11月25日になってしまいました。1994年は330本を1995年は325本を上限として納品されました。誇れることではありませんが、この3年間にル・ブラッシュから出荷されたロイヤル オーク オフショア25721は、たったの716本、つまりオーデマ ピゲのウォッチ全体の1.6%に過ぎませんでした。1972年から1974年の間に、1652本が納品されたロイヤル オーク 5402と比較すると、失敗作と言いたくもなるでしょう。この結果は、製造上の難しさに起因しているのかもしれません。しかし、何よりもこのウォッチが、初代ロイヤル オーク以上に衝撃的で、時代の先端を行くウォッチであったことを思い出す必要があります。この観点から、一部の市場のパイオニア精神は評価されるべきでしょう。
イタリアが再び頭角を現しました。フランコ・ジヴィアーニは、イタリア半島でオーデマ ピゲの時計の販売会社を経営していたアレッサンドロ・ヴィラ(パーペチュアルカレンダー搭載のロイヤル オークを参照)と長年に渡って仕事をしていました。後に同社を買うことになる彼は、エマニュエル・ギュエを連れて小売店巡りをしたのです。そして、ローマの小売店で「あなた方は正気ですか、とてつもなく大きいではないですか!」と言われた時に「見ていてください、フェラーリを運転してる男性が腕を出した時に、このウォッチの効果が分かりますよ」と答えたそうです。これは、的を得た答えだと言えるでしょう。最初の3年間は、4分の1近くがイタリアに出荷されました。しかし、すぐにオフショアの品不足に悩まされることとなり、製品の購入は1994年3月以降になる旨をお客様にお知らせするための広告までが出されるようになりました!また、1997年以降、スキー界のスター、アルベルト・トンバが着用したことで、イタリアにおけるダイナミズムがさらに増幅していきました。イタリアに続いて、スイス、アメリカ、そしてドイツが後を追うようになりました。
これらの国々が、道を切り開いていきました。そして、次第に人々に受け入れられてきたのです。しかし、モデル25721が15年間にも渡ってオーデマ ピゲのカタログに掲載され続けたのは、1996年以降、コレクションが拡大されたからでもあります。
1993年 - 1995年。ロイヤルオークオフショアのコレクション販売開始から3年間の総販売本数。
|
1993年 |
1994年 |
1995年 |
合計 |
イタリア |
24 |
86 |
59 |
169年 |
スイス |
15 |
47 |
52 |
114 |
アメリカ合衆国 |
1 |
44 |
46 |
91 |
ドイツ |
7 |
29 |
41 |
77 |
フランス |
0 |
32 |
18 |
50 |
日本 |
1 |
9 |
23 |
33 |
香港 |
2 |
17 |
10 |
29 |
イギリス |
6 |
17 |
6 |
29 |
スペイン |
0 |
9 |
12 |
21 |
ベルギー |
1 |
6 |
10 |
17 |
メキシコ |
0 |
4 |
9 |
13 |
シンガポール |
2 |
3 |
5 |
10 |
その他 |
2 |
27 |
34 |
63 |
合計 |
61 |
330 |
325 |
716 |
ビーストとそのファミリー
ロイヤル オーク オフショアは、1995年に数種類のゴールドモデル(25721のイエローゴールド14モデルとツートンカラーの27モデル)が追加され、トリプル ブレード フォールディングバックルが導入されたことを除くと、3年間モデルチェンジが行われることはありませんでした。そして、1996年に6つの新モデルがコレクションに加わり、ついに真のコレクションが誕生したのです。最初のモデルは、25770と名付けられた42mmのレザーストラップモデルです。
エマニュエル・ギュエはロイヤル オーク オフショアを男性のためのウォッチと捉えていましたが、1996年には女性用の2つのバリエーション(レザー製の79290と77151)が製作されました。直径30mm、自動巻きキャリバー2140(20mm)を搭載、スティール製でタペストリーダイヤルが施されたこの女性用ロイヤル オーク オフショアは、高い需要に応えるモデルとなりました。1996年のバーゼルフェアのプレスリリースには、次のような記載がありました。「オーデマ ピゲの多くのお客様から、レディースモデルの製作を望む声が寄せられています。」
他の3モデルは、38mmの中型サイズで展開されました。キャリバー2127/2827(26mm)を搭載し、日、月、ペリフェラル デイトのフルカレンダーがコレクションに加わります。25807モデルは1996年から2004年にかけて1116本以上生産され、レザーバージョンの25808モデルも追加されました。ロイヤル オーク オフショア 25852モデルは、香港の中国返還を記念して、ピンクゴールド製が19本、ステンレススティール製が96本、限定生産されました。このモデルが、スペシャルモデルシリーズへの道を開いたのです。
クロノグラフ、トゥールビヨン、グランドコンプリケーションが発表された1997年は、ロイヤル オークの歴史における最盛期であったことは、コレクターの方々ならご存知だと思います。しかし、この年がロイヤル オーク オフショアにとっての大きな転換期だったという点については見落とされがちです。パーペチュアルカレンダーが登場し(25854)、タイムゾーン(25970、25971、25972)、ジェムセット(25844)モデルも登場しました。ロイヤル オークの25周年を記念して、エマニュエル・ギュエはカナリアイエロー、アップルグリーン、オレンジ、レッド、ガーネット、ブラウン、スカイブルーなど、明るく陽気なカラーバリエーションをデザインしました。
この花火のようにカラフルな数々のモデルにより、コレクションの人気は勢いに乗り、1997年には初めて販売本数が1000本を突破したのです。翌年にはチタン製モデルが登場し、コレクションの人気を確かなものにしました。
アーノルド・シュワルツェネッガー
1997年秋、アメリカのスーパースター、アーノルド・シュワルツェネッガーが、ル・ブラッシュの時計メーカーを親しげに訪ねてきました。そして、フランソワ-アンリ・ベナミアスという若い営業担当の案内のもと、ブランドのミュージアムを見学しました。その俳優は自身が好んで収集している、懐中時計の数々に感嘆の声を上げます。しかし、彼は自身が2年前にウィーンで初めて手に入れたオフショア スピリットに、何よりも共感を覚えました。
その数ヵ月後、今度は彼がサンタモニカのレストラン「シャッツィ・オン・メイン」にフランソワ-アンリ・ベナミアスを迎えました。そして、二人は一緒に時計を作ることにしたのです。テーブルの片隅には、未来のロイヤル オーク オフショア エンド オブ デイズ、25770SN モデルと走り書きされていました。アイデアは尽きません:黒で統一したらどうだろう?ベルクロのケヴラー®ストラップは、スポーツとハイテクノロジーを象徴するモデルにぴったりかもしれませんね!このウォッチの売上を、アメリカの12都市で設立された、恵まれない若者にスポーツと教育プログラムを提供するインナーシティゲーム財団の資金として使用することだけは確かでした。
そこで、このウォッチの知名度を高めるために、アーノルド・シュワルツェネッガーが出演予定の次回作である、ハリウッド大作映画「エンド・オブ・デイズ」内で着用することが決まりました。ピーター・ハイアムズ監督による、2000年を迎える世界の終末を描いたスリラー作品です。1999年11月24日に公開されると、批評家からは酷評され、観客動員数は200万人を少し超えたものの、商業的な成功は思わしくありませんでした。
この結果とは逆に、エンド オブ デイズ ウォッチは、オーデマ ピゲのロイヤル オーク オフショアにとって、T3 ( 26029 ) 、オールスター (26158) 、レガシー (26378) など、数多くのロイヤル オーク オフショア限定モデルに代表される、新しい時代への幕開けとなりました。
これらはすべて、俳優であり政治家でもある、アーノルド・シュワルツェネッガーの慈善団体への資金提供を目的とするものでした。
以降、ブランドはヒップホップやバスケットボール、ポップカルチャーなど、当時はラグジュアリーの世界とはかけ離れていた分野とのパートナーシップを増やしていきました。一方、1999年にアメリカ市場のマネジメントがフランソワ-アンリ・ベナミアスの手に委ねられました。そして2012年より、彼はブランドの代表となりました。
第一次黄金期
21世紀におけるロイヤル オーク オフショアの歴史は、あまりにも膨大な量になるため、別記事でご紹介することになるでしょう。しかし、その前に、このコレクションが目覚ましく成長した2000年からの10年間について簡単に触れたいと思います。2000年には、たった1339本(レディースモデルを除く)しか出荷されなかったにも関わらず、10年後には14011本が出荷されるなど、ロイヤル オーク(8081本)を大きく上回る販売本数を記録しました。また、1990年代に誕生したモデルは20種類だったのに対し、2000年から2010年にかけては135種類のモデルが誕生しています。
2001年に発売されたロイヤル オーク オフショア 25940Sk(42mm)は、発売から6年間で1万本近くを販売し、あらゆる販売記録を塗り替えました! このモデルには、メガタペストリーダイヤルだけではなく、ラバーベゼルとブレスレットが導入されました。新たにコレクションの中心を担うモデルになりました。
シュワルツェネッガーとの限定モデルに続いて、2004年のファン・パブロ・モントーヤ、翌年のルーベンス・バリチェロ、そしてシャキール・オニールやミハエル・シューマッハ...といったスポーツスターとのパートナーシップによる数多くのバリエーションが製作されました。同コレクションはアリンギやレディキャットのようなスポーツチームを称えるコレクションでもあります。また、ブランドの顧客へのオマージュに、様々な都市(東京やミラノ、ニューヨークなど)や、国々(メキシコ、アルゼンチン、ドイツ、タイなどの国に捧げる« プライド オブ »シリーズなど)、をテーマにした限定モデルを発表しています。
2005年、ロイヤル オーク オフショアは、初めて高級時計の世界と都会的で型破りなヒップホップの世界を結びつけました。ロイヤル オーク オフショア 26055は、ラッパーのジェイ・Zとフランソワ-アンリ・ベナミアスの友情から生まれ、アーティストの10周年を記念して製作されたモデルです。ウォッチ本体に歌詞が刻まれることはありませんでしたが、歌手であり実業家でもあるジェイ・Z の楽曲すべてが入った、iPodが付属されています。
ロイヤル オーク オフショアは、型破りな色やデザイン、素材を採用した、素晴らしい遊び場のようなモデルです。1998年にチタン製モデル、2001年にラバー製モデル、2004年にカーボン製モデル、2008年にセラミック製モデルが追加されました。2007年からは、44mm、さらには48mm(2003年)のバリエーションが登場し、オーバーサイズの限界に挑戦しています。
真の社会文化現象であるロイヤル オーク オフショアは、力強く、自由で奔放な若者を体現しています。このコレクションは、時計業界全体を巻き込み、オーバーサイズウォッチという新しいカテゴリーを築き上げました。ここでは他に、オーデマ ピゲでキャリアをスタートしたジャン・クロード・ビバーが、後に引き継いだウブロ、オーバーサイズのダイバーズウォッチを基盤として成長を遂げたパネライ、アールデコのアイコンを強化したモデル、レベルソ スクアドラを生み出したジャガー ルクルトのみを挙げることにします。
オーバーサイズ化の傾向は強く、時計業界全体を通してウォッチの平均サイズが大きくなっています。こうしてオーデマ ピゲでも、ロイヤル オーク コレクションの中心を占めるモデルのサイズは大きくなっていくのです。2003年、ロイヤルオーク14790(36mm)に続き、15300(39mm)、2012年には15400(41mm)が発表されました。
対照的な運命
1972年の初代ロイヤル オークの開発は、1993年のオフショアとは逆対称の関係にあるように思われます。
前者は発売のわずか数カ月前に名前が付けられ、後者は最初のスケッチ以前に商標登録された名前から誕生しました。そして、前者がイタリア以外の国で瞬く間に商業的成功を収めたのに対し、後者はイタリア以外の国では精彩を欠く形でスタートを切りました。1970年のバーゼルフェアでは、初代ロイヤルオークのデッサンが一夜で完成し、1989年のバーゼルフェアの最終日にオフショアの素案の数々が作成されました。このように、数え上げるときりがありません...
とはいえ、両者には相違点よりも共通点の方が多いのです。どちらも、市場の需要により誕生しました。デザイナーやサプライヤー、時計メーカーなど、多くの貢献者によって育まれてきました。どちらも誕生した当時はアンファン・テリブル(異端児)と呼ばれ、初期には一つのモデル、一つの素材、一種類のダイヤル、一つのキャリバーのみが存在しました。
そして、どちらも、時計業界に新しいカテゴリーを創り出しました。ロイヤルオークはスティールウォッチに「ラグジュアリースポーツ」というカテゴリーを生み出し、ロイヤル オーク オフショアはオーバーサイズの高級時計の道を切り開きました。どちらも、行動、喜び、リラクゼーション、ポップカルチャーなどに向けられた世界観と、クラシックな時計製造を融合させました。 どちらも、世界各国のお客様に発表される前は、時計職人達の小さなコミュニティーに衝撃を与えました。
そしてどちらにとっても、物語はまだ始まったばかりなのです。










































































































