
ジャンピングアワー
最初のアパーチャー
時計師たちは古くから、「時の流れをどのように表示すべきか」という問いに向き合ってきました。興味深いことに、その始まりは視覚ではなく音でした。町や村に暮らす人々が同じ時刻を共有できるよう、鐘の音によって時が告げられていたのです。フランス語の clocher(鐘楼)や英語の clock が、ともに後期ラテン語の clocca に由来するとされるのも、そのためかもしれません。しかし、鐘を鳴らして時を知らせる仕組みには限界がありました。時刻を知るには、鐘が鳴るのを待たなければならなかったのです。そこで時計師たちは日時計の影から着想を得て、針を備えた文字盤を考案しました。
時計製作においてアパーチャーが初めて登場したのはルネサンス時代です。フランス語の guichet は文字どおり「小さな窓」を意味します。日常生活では、城や牢獄、銀行などで、人と人を物理的に隔てながらやり取りを可能にする小さな開口部を指します。その役割は、必要な情報を伝えるのに十分な大きさを保ちながら、接触を最小限にとどめることにあります。
時計製作において、アパーチャーは当初、時刻を表示するためには使われていませんでした。その最も古く印象的な例のひとつが、現在もプラハで見ることのできる天文時計「オルロイ(Orloj)」です。600年以上にわたり時を刻み続けるこの時計には、毎年およそ200万人の観光客が訪れます。文字盤の上には2つの小窓が設けられており、1時間ごとに12使徒の人形が順番に姿を現します。これは実際の「窓」ですが、後の時計に採用されるアパーチャー表示を予感させる存在でもありました。
初期のアパーチャーは、時刻そのものではなく、その補足情報を表示するために用いられていました。その多くは天文学に関連するもので、16世紀の置時計ではムーンフェイズ表示に、17世紀になると月や曜日の表示にも使われるようになります。しかし、複雑な天文機構を備えた時計においても、時計師たちは長らく針による表示を好み、アパーチャー表示は例外的な存在にとどまりました。
アパーチャーが本格的に定着するのは、3時位置の日付窓を備えた腕時計の登場を待ってからのことでした。
ジャンピングアワーとヴァガボンドアワー
オーデマ ピゲのリサーチによるとアパーチャーで時間を表示する最初の仕組みは、17世紀半ばに作られた極めて独創的な時計に見られます。そこに採用されていたのが、今日「ヴァガボンドアワー」と呼ばれる機構です。まだ真のジャンピングアワーではありませんが、その歴史を語るうえで欠かすことのできない存在です。
時計製作の歴史において、ある発明が誰のために生み出されたのかを知ることは極めて稀ですが、ヴァガボンドアワーは例外と言えるでしょう。
1655年、不眠症に悩まされていたローマ教皇アレクサンデル7世は、バチカンの時計師であったカンパーニ兄弟に、静かで暗闇でも読み取ることのできる時計の製作を依頼しました。これに応えた彼らは、15分刻みの目盛りの上を時表示が移動するデジタル表示を考案します。数字部分は切り抜かれており、時計内部に置かれたオイルランプの光がそこから漏れる仕組みになっていました。この発明が、「夜の時計(ナイトクロック)」の誕生につながったのです。
17世紀末になると、この特殊な表示機構は懐中時計にも応用されるようになります。そして19世紀初頭から1820年代にかけて再び姿を現した後、やがて忘れ去られていきました。
1980年代後半、当時オーデマ ピゲの技術部門ディレクターだったセルジュ・メイランは、1904年の『スイス時計ジャーナル』誌に掲載された記事を目にします。「独創的な時計」と題されたその記事では、1820年代に製作されたヴァガボンドアワー表示の時計が紹介されていました。1989年9月13日、メイランは後にスター ホイールとして発表されるモデルの技術図面を完成させます。そして1991年、その時計は製品として世に送り出されたのです。
しかし、この独創的な表示は期待されたほどの成功を収めることはなく、約10年後にはカタログから姿を消します。一方で、後にユルヴェルクをはじめとする複数のブランドに影響を与え、それぞれの解釈による発展を促しました。そして2022年、CODE 11.59 バイ オーデマ ピゲ コレクションに初のスター ホイールが加わります。このモデルには、そのために特別に再設計されたジャンピングアワー機構が搭載されました。
ただし、今回の主役はジャンピングアワーです。ここで再び、その物語に戻ることにしましょう。
初期の事例
1995年、ジュネーブのオークションハウスであるアンティコルムに、現時点で確認されているものとしては最古のジャンピングアワーウォッチである可能性を持つ時計が出品されました。ドイツ・フリートベルクの時計師エッカルトの作品とされるこの時計は、18世紀初頭頃の製作と考えられています。そのデザインや表示方法は同時代のヴァガボンドアワーウォッチに類似していますが、分表示にはレトログラード針が採用されています。12時位置に設けられた時表示窓は非常に小さく、そのことからジャンピングアワー表示であった可能性がうかがえます。
もうひとつ興味深い事例が、1912年に刊行されたジョン・ピアポント・モルガンの時計コレクション総目録に掲載されています。1720年頃にロンドンの時計師リチャード・コルストンによって製作されたこの時計には、アパーチャーによる時表示が採用されています。ただし、その窓は十分な大きさを備えており、時表示ディスクが次の時刻へ移るまで徐々に連続して進む様子を見ることができます。
これら2つの事例は孤立した存在だったようであり、当時の時計師たちに広く影響を与えた形跡は見られません。ジャンピングアワーがひとつの専門的な表示機構として認知されるようになるのは、19世紀を待たなければなりませんでした。


ジャンピングアワー、最初の黄金時代
1810年代から1820年代にかけては、アパーチャー表示を備えたジャンピングアワーが最初の黄金期を迎えた時代でした。その最も古い作例のひとつが、現在ジュネーブのパテック フィリップ ミュージアムに所蔵されています。1815年頃に製作され、「フレッシュ・ダムール(愛の矢)」の愛称で知られるこの時計には、ヌーシャテル地方の販売業者ペラン兄弟の署名が記されています。1820年から1840年にかけては、ヴァシュロン・コンスタンタン、レピーヌ、ボーテ&モワニエ、ブレゲ、ルロワ・エ・フィス、ウーダンなど、多くの時計師たちが同様の表示機構を開発しました。またこの時代には、一部の時計師がチャイミング機構(スタッグデンのカドラチュール)に着想を得て、ジャンピングアワー針を備えた表示機構も考案しています。
時計の分野では、1841年にドイツの時計師フリードリヒ・グートケスがドレスデン歌劇場のためにデジタル表示時計を製作しました。アパーチャーによる時表示と5分表示を備えたこの時計は、ミラノのスカラ座に設置されていた舞台時計から着想を得たものと考えられています。そして後に、この表示方式は1990年代にA.ランゲ&ゾーネが発表したアウトサイズデイトにも影響を与えることになります。
ジャンピングアワー付き懐中時計の第二の黄金期は、1883年7月にオーストリア人技術者ヨーゼフ・パルウェーバーが出願したドイツ特許 DE25042 とともに始まりました。この発明はジャンピングアワーとジャンピングミニッツを組み合わせたもので、翌年にはIWCが実施権を取得し、その後コルテベールも続きました。この機構には大きな技術的課題が伴いましたが、その人気は瞬く間に広がります。実際、ロベール・ベルトゥーのカタログには、その後に出願された関連特許が約50件も掲載されています。
産業革命のただ中に誕生したジャンピングアワーおよびジャンピングミニッツ付きの機械式時計は、近代性の象徴でもありました。この表示方式は時計製作の世界から完全に姿を消すことはありませんでしたが、今日の電子表示への道を切り開いた存在でもあります。1896年には、パルウェーバーとコルベが電気時計のデジタル表示に関する特許 GB15856 を出願しました。その後20世紀には、フィラメントや液晶を用いた表示が登場し、やがて私たちが日常的に使用するスマートフォンやコンピューター、自動車、さらには家電製品の表示へと受け継がれていくことになります。
技術的な仕組み
アパーチャー表示は、日付や時刻といった必要な情報だけを読み取れる最小限の開口部を備えています。しかし、その情報を常に見やすく保つためには、表示を一定時間同じ位置に保持し、適切なタイミングで次の数字へと切り替えなければなりません。
時計製作における表示機構には、主に3つの方式があります。ひとつ目は最も一般的な「トレーリング方式」です。針は脱進機の動きに合わせて進み、1秒間に6〜8回ほどわずかに動き続けます。
2つ目は、より複雑な「セミインスタント方式」です。表示は一定時間静止したまま保たれ、その後、数秒から数分かけて次の時刻や日付へと移行します。
そして3つ目が、最も高度で繊細な方式です。表示は必要な時間だけ完全に静止したまま保たれ、その間に機構が徐々にエネルギーを蓄積します。そして所定の瞬間になると、そのエネルギーを一気に解放し、表示を次の数字へ瞬時に切り替えます。これが「ジャンピング方式」、あるいは「インスタント方式」と呼ばれる仕組みです。この原理は、デッドビートセコンドウォッチやカレンダー機構、そして当然ながらジャンピングアワーウォッチにも用いられています。
時表示を瞬時に切り替えるために解放されるエネルギーは、時計の世界においては非常に大きなものです。そのため、この表示方式にはいくつかの技術的課題が伴います。例えば、一度に2つ先の数字へ飛んでしまう危険性や、時刻を前後どちらの方向にも調整することの難しさなどです。
1932年から1933年にかけて『ホロロジカル・ジャーナル』誌に掲載された「Jumping Hour Watches」は、このテーマを扱った数少ない技術論文のひとつです。そこでは、ジャンピングアワーを駆動するカタツムリ形カム、星形ホイール、レバー、バネといった部品について詳しく解説されています。本章では、その一部を紹介しています。
2026年に発表されたネオ フレーム ジャンピングアワー(第11章)を駆動するキャリバー7122は、同心円状に配置された2枚のディスクを備えています。内側の小さなディスクが分を連続的に表示し、外側の大きなディスクが時をジャンプ表示します。この時表示ディスクは、4つの星形バネによって駆動されます。バネは4時間で1回転しながら徐々にエネルギーを蓄積し、60分ごとにレバーを解放して時表示ディスクを動かします。また、特許取得済みの機構によって二重ジャンプを防いでいます。
さらに、このムーブメントの薄さを維持するため、時刻調整は針を時計回りに回した場合のみ行えるよう設計されています。
オーデマ ピゲとジャンピングアワー
オーデマ ピゲのアーカイブには、1917年付の「Établissage Heure Sautante dans Guichet SVF #3」と題された小さなファイルが保管されています。この資料は、アパーチャーによるジャンピングアワー表示機構の開発に関するものです。
オーデマ ピゲの時計師たちは、最初のジャンピングアワーウォッチにおいて、すでに実績のある機構を採用しました。1904年に登場し、1940年代末までに約3,800個が販売されたキャリバー17/18 SVF#3は、極薄型の懐中時計のために設計されたムーブメントです。その直径はバリエーションに応じて17〜18リーニュ(44〜45mm)でした。
この名称に用いられた文字には、それぞれ意味があります。Sは蛇を思わせる丸みを帯びたブリッジ形状を示す serpent、Vはレピーヌ式を意味する verre、そしてFは薄型を意味する fin を表しています。さらに「#3」は厚さ約2mmのバリエーションであり、最も薄い「#5」は1.55mmにまで達していました。
オーデマ ピゲのアーカイブには17/18SVFの多くのバリエーションが記録されており、そのムーブメントはジェームズ・オベール、シャルル・ピゲ、ルクルトといった複数の工房から供給されていた可能性があります。
1918年以降、このキャリバー17/18SVF#3の一部には、文字盤側に追加機構が装着されるようになります。いわゆるカドラチュール(文字盤側機構)であり、ジャンピングアワーディスクを支える役割を担っていました。
数年後、オーデマ ピゲはさらに一歩踏み込みます。分針そのものをアパーチャー表示へと置き換え、ストリームライン様式を体現するデザインへと発展させたのです。その後、一部のモデルにはカレンダーやミニッツリピーターなどの機能も加えられました。
1918年以降に製作されたジャンピングアワー懐中時計は、オーデマ ピゲがこの表示機構の可能性を積極的に探求していたことを物語っています。そして1920年代半ばになると、同社は時表示だけでなく分表示までアパーチャー化したモデルを発表し、この分野における先駆的な役割をいっそう強固なものにしていきました。
ジャンピングアワーと分針を備えた最初の腕時計
何世紀にもわたり、ジャンピングアワー表示は懐中時計だけのものでした。
1915年7月、スイスの時計師アルフレッド・スポリとアルトゥール・デュボアは特許CH71942を出願します。この特許は翌年、『Revue Internationale d’Horlogerie』誌でも紹介され、現在知られている限りでは世界初のジャンピングアワー腕時計につながる発明となりました。オランダのコレクターであり研究者でもあるルード・ファン・レイドは、この特許に基づいて製作された極めて希少な実機を発見しています。この発見は、特許が単なる構想にとどまらなかったことを証明しています。しかし、その現存数の少なさから、このプロジェクトは第一次世界大戦によって中断された可能性が高いと考えられます。
物語が大きく動き出すのは1924年になってからです。この年、オーデマ ピゲは、現在確認されている限りでは史上2番目となるジャンピングアワー腕時計を発表しました。最初のモデルは1924年6月にギュブランへ納品されたプレモデル176で、キャリバー10HPVMを搭載していました。その後、3本目の時計が納品された1924年12月以降は、新たにキャリバー10GHSMが採用されます。
このムーブメントはジャンピングアワーのために開発されたもので、その名称にも特徴が表れています。Gはジュネーブ品質を意味するGeneva、HSは Heure Sautante(ジャンピングアワー)、Mは Mince(薄型)を示していたと考えられています。
1924年から製作され、1951年まで販売されたキャリバー10GHSMは、およそ600本の時計に搭載されました。さらにそのうちの347本がジャンピングアワー表示を備えていました。その後、このキャリバーは通常の時分表示モデルや、カレンダー機能を備えた腕時計にも採用されていきます。
アーカイブには、時アパーチャーと分針を組み合わせ、1924年から1951年までに販売された212本の腕時計が記録されています。その95%は1935年以前に製作されたものです。ケース形状はスクエア、クッション、レクタンギュラーなど多岐にわたり、アーカイブではしばしば「トータス・レクタングル」と呼ばれています。また、一部には当時「ムーバブルラグ」と呼ばれた可動式ラグを備える希少なモデルも存在しました。
1920年代半ばから1930年代半ばにかけて、ジャンピングアワーはスイス時計業界全体に広がっていきます。ハース・ヌヴー、カルティエ、ジュベニア、ヘルヴェティア、パテック フィリップ、ロベール・カルト、C.H.メイランなど、多くのブランドや時計師たちが独創的な解釈を競い合いました。
オーデマ ピゲは、その黎明期からこの新しい表示機構に取り組み、ジャンピングアワー腕時計の発展において先駆的な役割を果たしました。1924年に誕生したこれらのモデルは、後に訪れるジャンピングアワーの黄金時代への重要な第一歩となったのです。
2つのアパーチャーを備えた腕時計
1926年12月、オーデマ ピゲは初となる2つのアパーチャーを備えたジャンピングアワー腕時計3本を納品しました。6時位置には細長く湾曲した開口部が設けられ、そこから分表示がゆっくりと移り変わる様子を読み取ることができます。この2つの窓以外に、ケースの表面に見えるものはほとんどなく、ゴールドだけが静かに存在感を放っていました。
その後5年間で、ル・ブラッシュの工房から136本の二窓式ジャンピングアワー腕時計が誕生します。スクエア、クッション、レクタンギュラーと形状はさまざまでしたが、一つとして完全に同じものはありませんでした。5本のみがキャリバー8SVを搭載しており、それ以外はすべて直径22.56mmのキャリバー10GHSMを採用していました。こうして二窓式ジャンピングアワー腕時計は、短期間ながらも鮮烈な流行を築き上げたのです。
しかし、その流行は世界恐慌によって突然終わりを迎えます。最後の4本は1934年から1946年までの10年以上をかけてようやく販売されました。
これらの時計を注意深く見ていくと、アパーチャーの形状や仕上げ、奥行きに豊かな表現が存在することに気づきます。磨き上げられた面取り、鋭い内角、両端を丸く仕上げた分表示窓、分を示す小さなドットなど、そのデザイン言語は多彩で繊細です。
二窓式ジャンピングアワーウォッチは、そのミニマルな美しさだけでなく、当時の時計製作における実用的な課題への解決策でもありました。初期の腕時計にはミネラルガラスしか用いられておらず、風防は衝撃や摩耗によって容易に破損していました。そのため、オーデマ ピゲは新しい時計を納品する際、しばしば予備の風防を複数同梱していました。いずれも時計ごとに寸法を合わせて製作された特注品でした。
二窓式の構造では、風防をケース内部に収めることができます。そのため外部からの衝撃に対する保護性能が向上しました。さらに時計史家アルフレッド・シャピュイは、ジャンピングアワー表示が広く支持された最大の理由は、むしろ風防を保護できる点にあったと考えています。
1930年、オーデマ ピゲはさらに小型のキャリバー8SV(直径18.05mm)のためにジャンピングアワームーブメントを開発し、コードレット(紐状)ストラップを組み合わせた優雅なクッションケースのモデルに搭載しました。プレモデル178および192がそれにあたります。アーカイブに記録されている5本のうち、実際に販売されたのは3本のみで、そのすべてが1930年から1932年の間に販売されました。現在、そのうちの1本はミュゼ アトリエ オーデマ ピゲの傑作デザインを紹介する展示ケースに収められています。
さらにアーカイブには、3つのアパーチャーを備えたモデルの記録も残されています。一方は日付表示を備え、もう一方にはスモールセコンドが組み込まれていました。しかし、いずれも1930年代以降、公の場に姿を現していません。
二窓式ジャンピングアワー腕時計は、オーデマ ピゲが1920年代から1930年代にかけて展開した最も大胆で前衛的なデザインのひとつでした。それは単なる表示機構ではなく、機能性と美しさを融合させた、新しい時計製作の表現だったのです。
ストリームライン様式からブロードウェイの靴王へ
ストリームライン様式を特徴づけるのは、空気力学に着想を得た流麗なフォルムです。アールデコと密接に関連するこのデザイン潮流は、戦間期を中心に、とりわけアメリカで大きく花開きました。近代性とスピードへの憧れに駆り立てられた当時の人々は、航空機、自動車、高速鉄道に魅了されていました。デザイン界の先駆者レイモンド・ローウィが手がけたペンシルベニア鉄道の蒸気機関車S1形が、高速で空気を切り裂くために生み出されたように、その流線形の美しさはランプやアイロン、トースター、そして時計にも取り入れられていきました。
1929年から1930年にかけて14本のみ製作されたプレモデル1271は、おそらく当時最もストリームライン様式を体現した時計のひとつでしょう。2ピース構造のケースは、まるでスピードのために設計されたかのような印象を与えます。ケース側面のゴドロン装飾はケースの輪郭に沿って伸び、ラグの先端へ向かって細く流れ込みながら合流しています。その姿は、高速で飛行する航空機の翼を思わせます。アパーチャーはダグラスDC-3の舷窓やコックピットの窓を想起させます。
ケース内部には、厚さわずか0.24ミリメートルの小さなガラス板が2枚収められ、極小のスプリングによって固定されていました。槌を持つ人物を描いた339番のホールマークが刻印されているにもかかわらず、このケースメーカーの正体はいまだ明らかになっていません。
モデル40546もまた、ストリームライン様式と同様に、きわめてアメリカ的な物語を秘めています。そのケース裏には「Maurice Miller, 1552 Broadway, NYC」という刻印が施されています。1930年当時、モーリス・ミラーは、父イスラエル・ミラーが築いた靴のビジネスを引き継いだばかりでした。イスラエル・ミラーは、ミュージックホールのスターたちに愛用された高級靴ブランドの創業者として知られています。
時計に刻まれた住所は、1926年にニューヨークのタイムズスクエア近くに建設されたI.ミラー・ビルディングを指しています。この建物はまさに「靴の殿堂」とも呼ぶべき存在でした。I.ミラーは1970年代までアメリカを代表する靴ブランドとして繁栄し、1955年にはアンディ・ウォーホルが同社の広告制作にも携わっています。
さて、話をモデル40546に戻しましょう。プレモデル1271のなかで唯一プラチナケースを採用したこの時計は、1930年3月20日にスイスの小売店ベイヤーへ500スイスフランで納品されました。その後、2016年にオーデマ ピゲ ヘリテージが取得し、現在はミュゼ アトリエ オーデマ ピゲに展示されています。
そして、この時計こそが、2026年に発表されたネオ フレーム ジャンピングアワーの着想源となったのです。過去と未来をつなぐ存在として、プレモデル1271は単なる歴史的作品にとどまらず、新たなコレクション誕生の原点となりました。
| 38 741 | 31.01.1929 | Max Mayer puis Gübelin | or gris 18K |
| 38 740 | 24.05.1929 | Beyer ZH puis Paris | or gris 18K |
| 38 750 | 28.05.1929 | Gübelin | or gris 18K |
| 38 749 | 10.07.1929 |
Gobbi (?) |
or gris 18K |
38 748 |
26.08.1929 |
Metric |
or gris 18K |
40 729 |
10.06.1930 |
Gübelin |
or gris 18 K |
38 745 |
28.05.1929 |
Gübelin |
or gris et rose 18K |
38 747 |
10.07.1929 |
Gobbi (?) |
or gris et rose 18K |
38 746 |
07.10.1929 |
Gallopin |
or gris et rose 18K |
38 744 |
21.04.1929 |
Wegelin fils |
or gris et vert 18 K |
39 919 |
21.09.1929 |
Gübelin |
or gris et vert 18 K |
39 920 |
21.09.1929 |
Gübelin |
or gris et vert 18 K |
39 921 |
21.09.1929 |
Gübelin |
or gris et vert 18 K |
40 546 |
20.03.1930 |
Beyer Zürich |
Platine |
チャイミング機構とジャンピングアワーの融合
1960年代から1970年代にかけて、スペースエイジデザインの流行とデジタル表示の登場により、機械式ジャンピングアワーウォッチへの関心が再び高まりました。イエマ、ベンラス、エルジンといったブランドがその先駆けとなり、1989年にはパテック フィリップが創業150周年を記念して、アールデコ時代に着想を得たジャンピングアワーウォッチを発表します。
同じ頃、オーデマ ピゲでは二人の才能ある時計師がそれぞれの夢を抱いていました。当時技術部門を率いていたセルジュ・メイランはジャンピングアワーの復活を目指し、一方、オーデマ ピゲのコンプリケーション工房でキャリアをスタートし、その後自身の時計開発会社を設立したジュリオ・パピは、チャイミング機構を備えた腕時計を再び世に送り出したいと考えていました。二人は、そのアイデアをひとつの時計に融合させることを決意します。
このプロジェクトには歴史的な必然性もありました。1920年代から1930年代は、オーデマ ピゲにおけるジャンピングアワーとミニッツリピーターの双方が最初の黄金期を迎えた時代だったからです。1世紀にわたって製作された35本のミニッツリピーター腕時計のうち、60%以上が1922年から1940年の間に販売されていました。
4年に及ぶ開発期間を経て、1992年、ついにモデル25723が誕生します。ケースはアールデコ様式から着想を得たレクタンギュラーデザインを採用し、搭載するキャリバー2865の直径は22mmと、1920年代のキャリバー10GHSM(22.56mm)とほぼ同じ寸法でした。このモデルは10年間で257本が製作され、大きな成功を収めます。
1995年からはジョン・シェーファー コレクションにもキャリバー2865が採用され、ジャンピングアワーとチャイミング機構の組み合わせが展開されました。さらに1996年には、オーデマ ピゲがアンダーダイヤル機構2823を開発し、モデル25771の懐中時計にジャンピングアワー表示を追加します(キャリバー2855/2823)。
その約10年後には、ジュール オーデマ コレクションの大型ケースモデルにも、この組み合わせが受け継がれました。43mmケースを備えたモデル26151およびオープンワーク仕様のモデル26356は、ジャンピングアワーとミニッツリピーターという、今やクラシックといえる組み合わせを採用し、2016年までカタログに掲載され続けました。
こうしてジャンピングアワーとチャイミング機構は、単なる歴史的な復刻にとどまらず、オーデマ ピゲの創造性と技術力を象徴するコンプリケーションとして、新たな時代へと受け継がれていったのです。
「ネオ フレーム」とは?
2016年、当時のオーデマ ピゲ CEOであったフランソワ=アンリ・ベナミアスは、プロダクト部門とヘリテージ部門の少人数のチームを招集し、ひとつの問いを投げかけました。
「21世紀によみがえらせるとしたら、どのヴィンテージウォッチを選ぶ?」
このプロジェクトはフランス語でヴィンテージを意味する「Millésimes」と名付けられました。候補として約20本の時計が選定され、そのうちの2本は、2020年と2024年に発表されたリマスター コレクションの限定モデルの着想源となります。そして3本目に選ばれたのが、第9章で紹介したモーリス・ミラーのために製作されたストリームライン様式のプレモデル1271でした。
2025年10月、この第三のプロジェクトが完成に近づいた頃、2024年にCEOへ就任したイラリア・レスタは、この時計にリマスター コレクションのひとつ以上の役割を与えることを決めます。すなわち、限定モデルとして発表するのではなく、新たなコレクションとして展開することを選んだのです。
こうしてモデル15245は、2026年2月、スイスアルプスの中心に位置するアンデルマットで開催された新作発表会AP ソーシャルクラブにて、全世界から訪れた顧客とプレスに向けて発表されました。その反響は非常に大きく、この時計は1920年代へのオマージュであると同時に、スペースエイジデザインを想起させるタイムピースとして高く評価されました。
キャリバー7122を搭載するネオ フレーム ジャンピングアワー(15245)は、オーデマ ピゲ初の自動巻きジャンピングアワーウォッチです。1920年代においては、傷つきやすい風防を守るためにガラスはケースの内部に収められていました。しかし今日では、ケースの蓋側に大型のサファイアクリスタルが直接取り付けられています。ダイヤモンドに次ぐ硬度を誇るサファイアクリスタルが、今度は金属部分を保護する役割を担っているのです。
通常、防水性能は風防をベゼルに圧入することで確保されます。しかし、ネオ フレーム ジャンピングアワーにはベゼルがなく、12時位置と6時位置には金属部分も存在しません。そのためサファイアクリスタルが露出した構造となっています。2気圧防水を実現するため、オーデマ ピゲは新たな製作工程を開発しました。まず文字盤プレートをサファイアクリスタルに接着し、その後ミドルケースへネジ留めするという独自の構造を採用したのです。これは本モデルのために特別に考案された技術でした。
さらに2026年4月、ジュネーブで開催されたウォッチズ&ワンダーズ(2026年4月14日〜20日)では、このモデルのプロトタイプも発表されました。ケース表面全体に手彫りの装飾が施され、1920年代のニューヨークの摩天楼を思わせる意匠によって、アールデコへのオマージュが表現された作品です。ネオ フレームは、ル・ブラッシュに根差す、独立系マニュファクチュールであるオーデマ ピゲにとって、新たな創造性の時代の幕開けを告げる存在といえます。そして同時に、ジャンピングアワーの華麗なる復活を象徴するコレクションでもあります。



























































































